戦闘機による迎撃
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第38任務部隊司令ミッチャー少将は特攻対策には艦載戦闘機の増強がもっとも効果が大きいと考え、会議で各方面に訴えた。 その提案を受けて、正規空母の標準搭載機の艦上爆撃機と艦上攻撃機を減らし、艦上戦闘機を倍増した。 艦爆・艦攻減による攻撃力低下は、艦戦(VF)の一部を戦闘爆撃機(VBF)として運用することによって対応し、増加搭載する戦闘機は海兵隊戦闘機(VMF)より補充した。しかし、海兵隊のパイロットは空母の発着艦ができないため、急遽集中訓練が行われたが、事故が多発し、空母エセックスだけでも、最初の9日間で13機の戦闘機が訓練中の事故で失われ、7名の海兵隊パイロットが事故死している。 空母エセックスの標準搭載機数の変遷。 F6F(艦上戦闘機)SB2C(艦上爆撃機)TBF(艦上攻撃機)F4U(艦上戦闘機)1944年7月(特攻開始前) 39機 36機 20機 - 1945年4月(沖縄戦開始時) 38機 15機 15機 36機 沖縄では増強された大量の艦載戦闘機と、占領した沖縄の飛行場に進出した海兵隊の戦闘機部隊が前述の戦闘指揮所(CIC)や戦闘機指揮管制士官(FDO)に誘導されて、特攻機を優位な位置で迎撃する事ができたのに対し、一方の特攻機は、重い爆弾を搭載していた上に、操縦訓練も十分に行っていない促成搭乗員が増えたせいもあり、アメリカ艦隊にたどり着く前に次々と撃墜された。アメリカ軍戦闘機対特攻機の空戦を見た従軍記者ロバート・シャーロッド(英語版)は「特攻機は退避運動も満足にできず、真っ直ぐ飛ぶだけだった。」「ジャップ撃墜は赤ん坊の手をねじる様に簡単な事だった。」と報道したほどであった。 ユージンA.バレンシアジュニア(英語版)中尉の12.5機撃墜(総撃墜数23機 アメリカ海軍3位の撃墜数)を初めとして、沖縄だけで5機以上撃墜したエースが93名も出ている。特に特攻対策として増強されたF4U コルセアが特攻機撃墜に威力を発揮し、「カミカゼ・キラー」とも呼ばれた。F4U コルセアの日本軍機との空中戦によるキル・レシオは、アメリカ軍側の主張によれば1:11であるが、撃墜した多くの日本機が特攻機であった。 しかし、沖縄戦における特攻機の来襲はアメリカ軍の予想を遥かに超えていた。アメリカ軍は戦闘空中哨戒(CAP)の戦闘機を、常時56機から76機を飛行させておき、必要に応じて陸上基地から増援を出撃させることとしていたが、戦闘空中哨戒(CAP)の戦闘機を超える特攻機が来襲して、警戒網をすり抜けてアメリカ軍艦船を攻撃した。例えば、1945年4月6日 - 4月7日の菊水一号作戦においては、特攻未帰還機356機の内200機までに沖縄周辺海域への突入を許している。そのため、アメリカ軍は戦闘空中哨戒(CAP)の戦闘機の機数を120機に増やしている。また出撃機数が減った沖縄戦後半以降は、複数の編隊による陽動作戦や、早暁や日没前後の視界が十分でない時間に攻撃の軸を移すなどの対策で、アメリカ軍戦闘機の迎撃を分散させている。 アメリカ軍戦闘機パイロットは、艦隊まで進入を許した特攻機に対して、艦隊上空でも味方からのフレンドリー・ファイアも恐れず徹底的に追い回した。とあるF4U コルセアは特攻機を追撃しすぎて駆逐艦ラフィーのレーダー・アンテナに接触し、それを叩き落としたこともあった。 日本軍は、沖縄の飛行場から出撃するアメリカ海兵隊機を特攻作戦の大きな支障になると考え、陸軍の重爆撃機で執拗に攻撃した。主要目標は沖縄本島上の嘉手納飛行場と読谷飛行場となり、読谷飛行場では、海兵隊機が戦闘空中哨戒(CAP)任務を開始して以降、ほぼ毎日、日本軍機の空襲があり、その回数は4月15日から月末まで9回にも及んだ。4月末には、芙蓉部隊などの海軍機も加わり、攻撃は続いたが、飛行場機能に支障をきたす様な損害を与えることはできず、逆に、5月には伊江島飛行場にアメリカ陸軍のP-47 サンダーボルトが展開するなどアメリカ軍の航空戦力は強化される一方であった。 第6航空軍司令官菅原道大中将は、空襲だけではアメリカ軍飛行場に打撃を与えるのは困難なため、義烈空挺隊を突入させて飛行場に大打撃を与えることを計画、海軍の第5航空艦隊司令官宇垣纏中将も、陸軍に呼応して陸上攻撃機や夜間戦闘機を送り込むこととし、5月24日の夜から翌日にかけて、沖縄のアメリカ軍飛行場を巡っての最大の激戦が戦われた。義烈空挺隊が突入した読谷飛行場では、大打撃を受けた海兵隊戦闘機隊が一時作戦遂行不可能となるなど、かなりの成果をあげたが、これまでアメリカ軍飛行場を攻撃してきた海軍の芙蓉部隊が、慰労会や酒宴を開催しており攻撃に参加していないなど、初めから陸海軍連携の足並みは揃っておらず、また5月25日から沖縄の天候が崩れてしまったため、日本軍は攻撃成功の効果を十分に活かすことはできなかった。 この後、陸軍は本土決戦準備のため航空戦力の温存を図ることにし、アメリカ軍飛行場攻撃から撤退したが、海軍は方針が決まらないまま、アメリカ軍飛行場攻撃を継続、戦果は挙がらないなかで損害だけが増えていき、7月2日には、台湾の第七六五海軍航空隊もアメリカ軍飛行場攻撃から撤退し、残ったのは芙蓉部隊のみとなった。アメリカ軍もこの頃になると、警戒を殆どしておらず、芙蓉部隊機が攻撃しても灯火管制すらしない有様であった。
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