戦闘機マフィアとF-16
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「ジョン・ボイド (軍人)」の記事における「戦闘機マフィアとF-16」の解説
しかしボイドは、このように見直されたFXに対しても、なお不満を持っていた。その不満は、主に下記の2点であった。 視程外射程(BVR)での交戦を重視した結果としてアビオニクスが高度化し、機体価格の高騰から取得性が低下している点。 さまざまな性能要求によりFXの機体が当初の見積もりよりも大きくなってしまったことなどE-M理論の適用が不徹底であるため、当時推定されていた仮想敵機に対して性能的に劣る危険がある点。 当時、国防総省や空軍には、ボイド以外にも同様の危惧を抱くものが現れていた。その一人が、システム分析担当国防次官補室に勤めるピア・スプレイであった。スプレイは、重量15〜16トン級と、現行のFXより一回り小さく、かつE-M理論を徹底的に適用した戦闘機として、FXXと呼ばれる研究に着手した。F-XXははるかに安上がりなので、質のみならず量においてもソビエト空軍/防空軍の戦闘機部隊を凌駕するという目的で構想された。空軍上層部はFXX構想に興味は示したものの、仮にこれを採用した場合はFXの調達を圧迫することが懸念されたことから、特にFXを支持する将官たちから強い反発を受けた。この結果、ボイドとスプレイは正面からの説得をあきらめ、地下活動に移行することとなった。まもなく、3人目の同志として、空軍省勤務の戦闘機操縦士兼航空工学技術者であるE・リッチオニ大佐が加わり、これら3名は戦闘機マフィア (Fighter Mafia) として知られる一派のオピニオン・リーダーとなった。ボイドをはじめとする戦闘機マフィアに対する政治的逆風は極めて強く、例えば戦闘機マフィアの頭目を自任していたリッチオニ大佐は、ジョン・マイヤー空軍参謀次長に対してFXXの有用性を説いたために、1970年には在韓米軍に左遷される憂き目にあっている。 「F-16 (戦闘機)#開発史」も参照 このような逆風にもかかわらず、ボイド一派による説得工作が進められた。当時、海軍の艦上戦闘機としてF-14の配備が進められていたが、ボイドは、これもあまりに重く高価すぎることから、必ずこれを代替ないし補完する機体が必要になると予測したうえで、その種の機体に関する研究で海軍に先んじなければ、空軍は、海軍の研究に基づく機体を押し付けられることになりかねないという論理を構築した。この論理はリッチオニ大佐によって正式に提案され、1969年、空軍上層部は研究予算14万9,000ドルを承認した。研究はジェネラル・ダイナミクスとノースロップに打診され、予算はジェネラル・ダイナミクスに4万9,000ドル、ノースロップに10万ドルが配分された。 そして1971年ごろには、当時国防副長官だったデビッド・パッカードが、CL-1200ランサーの売り込み先を探していたケリー・ジョンソンの助言によりこの計画に興味を持ったことから突破口が開かれ、先進技術の実証機として軽量戦闘機(LWF)F-XXの開発計画を開始した。1972年1月6日にはRFPが発出された。 ただしこの時点では、LWF計画はあくまで実験的な計画であり、本当に装備化されるかどうか不透明であった。空軍上層部の中将達は、LWF計画立ち上げの最終ブリーフィングの席上で、戦闘機マフィアに対して決定的なノックアウトを与えることを目論んでいた。そしてブリーフィングが行なわれるはずであった当日、ボイドは将軍たちに対して、LWFを装備化する決定は既に下された旨、国防長官からの伝言として伝達した。会場は大騒ぎとなり、戦闘機マフィアは完勝を収めた。1974年3月7日、ジェームズ・R・シュレシンジャー国防長官は、LWF計画を空戦戦闘機(ACF)計画に発展させ、全面開発に移ることを発表した。その後、LWFはNATOの同盟国向けとしても注目されるようになり、計画はさらに加速したが、その分、ボイドをはじめとする戦闘機マフィアに対する圧力は、幾何級数的に増大していくこととなった。
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