戦闘機の爆装
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 15:32 UTC 版)
詳細は「戦闘機」を参照 1915年6月、ドイツがプロペラ内固定銃を装備して敵の航空機を撃墜する機体としてフォッカー アインデッカーを量産し、この駆逐機(戦闘機)の出現を各国が見習い、本格的な空中戦闘がこの機体から始まり、それまで単一機で行われていた飛行機作戦から任務が細分化され、偵察、爆撃、空戦と発展して行く過程で専用機種も生まれた。1915年後半になると戦闘機、爆撃機という専用機種が現れた。 しかし、航空母艦が開発されると事情が変わってきた。航空母艦は艦載機を搭載できる数が決まっているため、状況に応じた戦力をより多く確保できるように、様々な任務で併用できる航空機の開発が各国で進められた。その中で戦闘機と爆撃機(攻撃機)を統合する動きも現れた。 日本海軍の横須賀海軍航空隊戦闘機分隊長源田実大尉は、戦闘機を以てする急降下爆撃の研究に精力を傾けた。源田は、戦闘機隊は主として防御的作戦に使用されているが、戦闘の勝敗を決定する制空権を確保するためにもっと積極的に敵を攻撃する方に向けてはどうかと考え、敵の航空母艦を先制制圧するために、急降下爆撃機を善用すべきは勿論、航続距離の延伸、操縦性の軽快さ、戦闘機としての流用等を考慮し、1933年から1935年にわたって、「単座急降下爆撃機」の試作、採用を主張し続けたが、賛同は得られなかった。この飛行機は制空権獲得のため、敵空母の先制空襲を主任務とするが、この爆撃が終われば、単座戦闘機として流用し得る構想であった。1934年、空母「赤城」で実施された第一航空戦隊研究会で、源田は「単座急降下爆撃機」の導入を主張して、戦闘機と攻撃機の半数ずつをこれと入れ替える意見を出した。これに対して第一航空戦隊司令官山本五十六少将は、戦闘機を攻撃に使うという点には賛成したが、航法上の安全性からやはり二座になると却下した。 アメリカ海軍の艦上戦闘機カーチスF6Cは、機銃2門のほかに116ポンド爆弾2発を搭載し急降下爆撃が可能であった。この機体は1937年に配備され、装備した部隊は爆撃航空隊と呼ばれた。F8C-2では、さらに本格的な急降下爆撃機に進化し、初めてヘルダイバー(急降下爆撃機)の名を冠した。F8C-2は後にカーチスO2C/S3Cと改名され、戦闘機とは別の機体と分類されるようになった。 第二次世界大戦が始まると、多くの戦闘機が様々な理由で爆装を強化されていった。 日本の陸海軍においても戦闘機の爆装は強化された。 詳細は「爆戦」を参照 日本海軍では、零式艦上戦闘機に250キロ爆弾を携行できるようにして戦闘爆撃機(爆戦)として使用した。零戦が戦闘爆撃機として利用された理由は、当時、中小空母で満足に使用できる急降下爆撃機がなかったことにある。しかし、爆戦なら中小空母でも活用できるし、性能も九九式艦爆より良く、爆弾投下後は戦闘機としてある程度の期待が持てる利点があった。しかし、搭乗員が一人であるため、洋上での行動能力が艦爆より小さく、爆撃の命中精度も二人乗りの艦爆ほど期待はできなかった。また、優秀な戦闘機搭乗員を用意するのは困難であり、爆弾投下後の戦闘に期待することも無理があった。 ドイツではBf 109、Bf 110に爆弾を搭載し、それを用いた戦術を研究する実験飛行隊が編成された。その実戦投入はバトル・オブ・ブリテン時、ドーバー海峡沿岸のイギリス軍側レーダー施設を攻撃したのが最初である。参戦の遅れたアメリカでは、自国産の戦闘機が大型であることを生かし、大戦初期の双発爆撃機並の爆弾搭載量を持たせて使用した。 大戦後半になると、ドイツ空軍の戦闘機部隊は戦略爆撃への対処で手一杯になったこともあり、欧州の制空権はほぼ連合国のものとなった。アメリカおよびイギリスは制空戦闘任務の必要性が低下した戦闘機に小型爆弾やロケット弾を搭載して、制空権を持たないドイツ軍の地上部隊を攻撃した。いかに重厚な前面装甲を持つ戦車であろうと、上空や後部からの攻撃には無力であり、地上戦闘を前に多くの地上戦力がこれらの爆撃によって破壊され、これをドイツ軍は「ヤーボ(Jabo)」と呼び恐れた。これはドイツ語の「ヤークトボンバー(Jagdbomber)」を縮めたもので、「Jagdflugzeug(戦闘機)」と「Bomber(爆撃機)」を合わせた略語)である。ただし、戦闘機による爆撃の命中精度は低かった。
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