戦闘機と高射砲
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「B-29 (航空機)」の記事における「戦闘機と高射砲」の解説
B-29の出撃総数と第21爆撃集団のB-29出撃1回に対する日本軍戦闘機の攻撃回数推移 年・月B-29総出撃機数日本軍戦闘機攻撃回数日本軍本土防衛用戦闘機数1944年11月611 4.4 375機 1944年12月920 5.4 370機 1945年1月1,009 7.9 375機 1945年2月1,331 2.2 385機 1945年3月3,013 0.2 370機 1945年4月3,487 0.8 450機 1945年5月4,562 0.3 480機 1945年6月5,581 0.3 485機 1945年7月6,464 0.02 500機 1945年8月3,331 0.01 535機 上表のとおり1945年1月までの日本軍戦闘機によるB-29への迎撃は執拗であり、特に京浜地区の防衛を担う立川陸軍飛行場や調布陸軍飛行場に配備されていた二式戦「鍾馗」・三式戦「飛燕」、海軍厚木基地・横須賀基地に配備されていた雷電はB-29撃墜にとって有効な存在で、爆撃後背後から襲い、一度に十数機を被撃墜・不時着の憂き目に合わせたこともしばしばであった。日本軍戦闘機の装備の中で、B-29搭乗員に恐れられたのが三号爆弾であり、B-29搭乗員は炸裂後の爆煙の形状から白リン弾と誤認し、三号爆弾を「いやな白リン爆雷」と呼んで、空中で爆発すると凄まじい効果があったと回想している。第三三二海軍航空隊に所属し零戦52型でB-29を迎撃した中島又雄中尉によれば、三号爆弾は命中させるのは非常に困難であったが、なかには7機のB-29を撃墜した搭乗員もいたという。撃墜できなくとも、B-29の編隊を乱して、損傷したり落伍したB-29を集中して攻撃できるという効果もあった。 しかし、空冷エンジンの機体が圧倒的に多く、高高度性能が劣る日本軍戦闘機は、当初高高度精密爆撃を主戦術としていたB-29の迎撃に大変苦労をしていた。本土防空戦で主力の一翼を担った二式戦闘機「鍾馗」は、武装や防弾鋼板から燃料タンクの防弾ゴムに至るまで不要な部品を取り除いても、B-29の通常の来襲高度と同水準の10,500mまでしか上昇できなかった。一瞬のうちに接敵するため照準が困難で、一度攻撃に失敗すると上昇姿勢となるため急速に失速し、B-29の銃座から恰好の目標となってしまうこと、またうまく離脱できても、高高度でのB-29と鍾馗の速度差から再度の攻撃が困難であったという。B-29を苦しめたジェット気流が迎撃側の日本軍戦闘機にも障害となり、東京に来襲するB-29を迎撃する場合、B-29は伊豆半島あたりから北上してそののちに東に針路を変えてジェット気流に乗って加速してきたが、迎え撃つ日本軍戦闘機は高度8,000mまで上昇するとジェット気流に逆行する形となり、フルスロットルでも気流に押し流されて対地速度が殆どゼロの凧のように浮いているだけの状態になった。このような状況下ではいくら熟練搭乗員でも、八王子ぐらいでB-29を捕捉して1撃を加え、反復して東京上空で2撃目、そして爆撃を終えて帰投しているところを銚子上空で3撃目を加えるのがやっとであった 九州が幾度も空襲され、マリアナ諸島がアメリカ軍に攻略されると、1944年11月1日、東京にB-29の偵察機型F-13が高度10,000mの高高度で初来襲したが、F-13を捉えることができた日本軍戦闘機は皆無であった。九州では陸海軍の数機がB-29に体当たりを成功させており、高高度性能に劣る日本軍戦闘機では、確実にB-29を撃墜できるのは体当たり以外にはないと考えられて、陸軍の震天制空隊など空対空特攻部隊が編成され、通常の戦闘機による迎撃に併せてB-29の迎撃に投入された。海軍では高高度迎撃のため局地戦闘機「震電」の開発を進めていたが、空襲による工場の壊滅と技術的な問題により開発が遅延し、飛行試験の段階で終戦となった。 B-29の来襲機数が劇的に増加する1945年3月以降は、逆に日本軍は沖縄での航空作戦に戦力の過半を投入しており、本土防空戦への戦闘機投入数はB-29の増加数には見合わないものであった。また、ルメイによる作戦変更で夜間の市街地無差別焼夷弾攻撃が開始されたのも1945年3月であるが、夜間は、センチメートル波小型機上レーダーはおろか、各機を管制する防空システムすら不十分な日本側は効果的な迎撃ができず、斜め銃・上向き砲装備、双発の月光、二式複戦「屠龍」の夜間戦闘機が爆撃火災に照らし出されるB-29を発見・攻撃する状態で、灯火管制の中止を要求する飛行隊もあったという。 ルメイは戦後に「日本軍の夜間戦闘機に撃墜されたB-29は1機も無い」と誤った認識を持っていたほど、徹底して日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していた。1945年4月以降に攻略した硫黄島からP-51が日本本土に向けて飛来すると、本土決戦に向けて戦力温存をはかっていた日本軍は、損害に対して戦果が少ない小型機相手の迎撃は回避するようになって、さらに迎撃回数は減少していった。 戦闘任務におけるB-29の原因別損傷数 年・月損傷機数合計敵戦闘機による損傷対空火器による損傷戦闘機と対空火器事故による損傷1944年11月11 3 3 2 3 1944年12月83 22 41 14 6 1945年1月120 68 20 21 11 1945年2月134 46 69 12 7 1945年3月210 12 188 9 1 1945年4月518 76 353 80 10 1945年5月600 53 495 43 10 1945年6月624 48 513 51 12 1945年7月234 13 218 2 1 1945年8月173 8 164 0 1 合計2,707 348 2,063 234 62 戦闘機による迎撃回数の減少に伴い、1945年の5月頃から対B-29戦の主力は高射砲となった。主力高射砲であった八八式七糎野戦高射砲に加えて、新型の九九式八糎高射砲も1942年から量産が開始され、1943年に入ると、八八式7.5cm野戦高射砲が1942年度の総生産数600門から1943年度1,053門、九九式八糎高射砲は40門から400門へと増産がはかられた。さらに1943年5月には最大射高14,000mの三式十二糎高射砲も生産開始され、この3種の高射砲が主力となってB-29を迎え撃つことになった。さらに、三式12cm高射砲でも10,000mを飛ぶB-29に対しては射高不足が懸念されたため、射高が20,000mもある五式十五糎高射砲が開発されることになった。 高射砲は日本劇場や両国国技館の屋上などにも設置されたが、当初の高高度精密爆撃の際は、数的には日本の高射砲戦力の主力を担っていた最大射高9,100mの八八式7.5cm野戦高射砲と、10,000mの九九式八糎高射砲は射高不足であり、B-29をなかなか捉えることができず、日本国民から「当たらぬ高射砲」と悪口を言われた。 しかし、ルメイによる作戦変更によりB-29の爆撃高度が下がると、日本軍の高射砲はB-29を捉えることができてB-29の損害は増大した。首都防空担当の高射第1師団にいた新井健之大尉(のちタムロン社長)は「いや実際は言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜した」と発言している。代々木公園にあった高射砲陣地から撃たれた高射砲はよく命中していたという市民の証言もある。高射砲弾が命中したB-29は赤々と燃えながら、その巨体が青山の上空ぐらいで爆発して四散していた。高射砲弾で墜落していくB-29を見ると拍手が起こったが、なかには「落としたって(敗戦時の)賠償金が増えるだけだ」と冷めた冗談を言うものもいたという。日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していたルメイも高射砲に対してはかなり警戒していた。
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