戦闘機と高射砲とは? わかりやすく解説

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戦闘機と高射砲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 15:04 UTC 版)

B-29 (航空機)」の記事における「戦闘機と高射砲」の解説

B-29出撃総数第21爆撃集団B-29出撃1回対す日本軍戦闘機攻撃回数推移 年・月B-29総出撃機数日本軍戦闘機攻撃回数日本軍本土防衛戦闘機1944年11月611 4.4 3751944年12月920 5.4 3701945年1月1,009 7.9 3751945年2月1,331 2.2 3851945年3月3,013 0.2 3701945年4月3,487 0.8 4501945年5月4,562 0.3 4801945年6月5,581 0.3 485機 1945年7月6,464 0.02 5001945年8月3,331 0.01 535機 上表のとおり1945年1月までの日本軍戦闘機によるB-29への迎撃執拗であり、特に京浜地区防衛を担う立川陸軍飛行場調布陸軍飛行場配備されていた二式戦鍾馗」・三式戦「飛燕」海軍厚木基地横須賀基地配備されていた雷電B-29撃墜にとって有効な存在で、爆撃後背後から襲い一度十数機を被撃墜不時着憂き目合わせたこともしばしばであった日本軍戦闘機装備の中で、B-29搭乗員恐れられたのが三号爆弾であり、B-29搭乗員炸裂後の爆煙の形状から白リン弾誤認し三号爆弾を「いやな白リン爆雷」と呼んで空中爆発すると凄まじい効果があったと回想している。第三三二海軍航空隊所属し零戦52型でB-29迎撃した中島又雄中尉によれば三号爆弾命中させるのは非常に困難であったが、なかには7機のB-29撃墜した搭乗員もいたという。撃墜できなくとも、B-29編隊乱して損傷した落伍したB-29集中して攻撃できるという効果もあった。 しかし、空冷エンジン機体圧倒的に多く高高度性能が劣る日本軍戦闘機は、当初高高度精密爆撃主戦術としていたB-29迎撃に大変苦労をしていた。本土防空戦主力一翼担った二式戦闘機鍾馗」は、武装防弾鋼板から燃料タンク防弾ゴムに至るまで不要な部品取り除いても、B-29通常の来襲高度と同水準10,500mまでしか上昇できなかった。一瞬のうちに接敵するため照準が困難で、一度攻撃失敗する上昇姿勢となるため急速に失速しB-29銃座から恰好目標となってしまうこと、またうまく離脱できても、高高度でのB-29鍾馗速度差から再度攻撃が困難であったという。B-29苦しめたジェット気流迎撃側の日本軍戦闘機にも障害となり、東京来襲するB-29迎撃する場合B-29伊豆半島あたりから北上してそののちに東に針路変えてジェット気流乗って加速してきたが、迎え撃つ日本軍戦闘機は高度8,000mまで上昇するジェット気流逆行する形となり、フルスロットルでも気流押し流され対地速度が殆どゼロの凧のように浮いているだけの状態になったこのような状況下ではいくら熟練搭乗員でも、八王子ぐらいでB-29捕捉して1撃を加え反復して東京上空で2撃目、そして爆撃終えて帰投しているところを銚子上空で3撃目を加えるのがやっとであった 九州幾度も空襲され、マリアナ諸島アメリカ軍攻略されると、1944年11月1日東京B-29偵察機型F-13が高度10,000mの高高度で初来襲したが、F-13を捉えることができた日本軍戦闘機皆無であった九州では陸海軍の数機がB-29体当たり成功させており、高高度性能に劣る日本軍戦闘機では、確実にB-29撃墜できるのは体当たり以外にはないと考えられて、陸軍震天制空隊など空対空特攻部隊編成され通常の戦闘機による迎撃併せてB-29迎撃投入された。海軍で高高度迎撃のため局地戦闘機震電」の開発進めていたが、空襲による工場壊滅技術的な問題により開発遅延し飛行試験段階終戦となったB-29来襲機数が劇的に増加する1945年3月以降は、逆に日本軍沖縄での航空作戦戦力過半投入しており、本土防空戦への戦闘機投入数はB-29増加数には見合わないものであったまた、ルメイによる作戦変更夜間の市街地無差別焼夷弾攻撃開始されたのも1945年3月であるが、夜間は、センチメートル波小型機レーダーはおろか、各機を管制する防空システムすら不十分な日本側は効果的な迎撃ができず、斜め銃上向き砲装備双発月光二式複戦「屠龍」夜間戦闘機爆撃火災照らし出されるB-29発見攻撃する状態で、灯火管制中止要求する飛行隊もあったという。 ルメイ戦後に「日本軍夜間戦闘機撃墜されB-29は1機も無い」と誤った認識持っていたほど、徹底して日本軍戦闘機による迎撃過小評価していた。1945年4月以降攻略した硫黄島からP-51が日本本土向けて飛来すると、本土決戦向けて戦力温存はかっていた日本軍は、損害に対して戦果少な小型機相手迎撃回避するようになって、さらに迎撃回数減少していった。 戦闘任務におけるB-29原因損傷数 年・月損傷機数合計戦闘機による損傷対空火器による損傷戦闘機対空火器事故による損傷1944年11月11 3 3 2 3 1944年12月83 22 41 14 6 1945年1月120 68 20 21 11 1945年2月134 46 69 12 7 1945年3月210 12 188 9 1 1945年4月518 76 353 80 10 1945年5月600 53 495 43 10 1945年6月624 48 513 51 12 1945年7月234 13 218 2 1 1945年8月173 8 164 0 1 合計2,707 348 2,063 234 62 戦闘機による迎撃回数減少に伴い1945年5月頃から対B-29戦の主力高射砲となった主力高射砲であった八八式七糎野戦高射砲加えて新型九九式八糎高射砲1942年から量産開始され1943年に入ると、八八式7.5cm野戦高射砲1942年度の総生産数600門から1943年度1,053門、九九式八糎高射砲40門から400門へと増産はかられた。さらに1943年5月には最大射高14,000mの三式十二糎高射砲生産開始され、この3種高射砲主力となってB-29迎え撃つことになった。さらに、三式12cm高射砲でも10,000mを飛ぶB-29に対しては射高不足が懸念されたため、射高が20,000mもある五式十五糎高射砲開発されることになった高射砲日本劇場両国国技館屋上などにも設置されたが、当初高高度精密爆撃の際は、数的に日本高射砲戦力主力担っていた最大射高9,100m八八式7.5cm野戦高射砲と、10,000mの九九式八糎高射砲は射高不足であり、B-29をなかなか捉えることができず、日本国民から「当たらぬ高射砲」と悪口言われた。 しかし、ルメイによる作戦変更によりB-29爆撃高度が下がると、日本軍高射砲B-29捉えることができてB-29損害増大した首都防空担当高射第1師団にいた新井健之大尉(のちタムロン社長)は「いや実際言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった本当高射砲落としたものなのに、防空戦闘機戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ない3月10日下町大空襲のときなど、火災照らされながら低空を飛ぶ敵機相当数撃墜した」と発言している。代々木公園にあった高射砲陣地から撃たれ高射砲はよく命中していたという市民証言もある。高射砲弾命中したB-29赤々と燃えながら、その巨体青山の上空ぐらいで爆発して四散していた。高射砲弾墜落していくB-29を見ると拍手起こったが、なかには落としたって(敗戦時の賠償金増えるだけだ」と冷めた冗談を言うものもいたという。日本軍戦闘機による迎撃過小評価していたルメイ高射砲に対してはかなり警戒していた。

※この「戦闘機と高射砲」の解説は、「B-29 (航空機)」の解説の一部です。
「戦闘機と高射砲」を含む「B-29 (航空機)」の記事については、「B-29 (航空機)」の概要を参照ください。

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