第20空軍創設
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「B-29 (航空機)」の記事における「第20空軍創設」の解説
インドに配備されることとなったB-29はその強力な戦力ゆえに、在華アメリカ陸軍航空隊司令官クレア・リー・シェンノート少将や東南アジア地域総司令官ルイス・マウントバッテン卿など英領インド・中国方面の連合軍各指揮官らが自分の指揮下に置きたがった。その中には南太平洋で戦っている南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将も含まれていた。 指揮系統が混乱してB-29が十分なはたらきができなくなると懸念した軍首脳は、1944年4月4日にアメリカ統合参謀本部に直属する第20空軍を創設、司令官にアーノルドを据えて、参謀長にヘイウッド・S・ハンセル准将を置いた。第20空軍を創設した理由について、参謀総長のマーシャルは「新しい爆撃機の力は非常に大きいので、統合参謀本部としては、これをひとつの戦域だけでつかうのは、経済的ではないと考え、新しい爆撃機は一人の指揮官のもとで、統合参謀本部の指揮下におくこととした」「新しい爆撃機は、海軍の機動部隊が特定の目的に向けられると同様に、主要な特定任務部隊としてとりあつかわれるものである」とこのときの決定の趣旨を説明している。 一方、日本軍も着々と進む中華民国からの日本本土爆撃の準備を見過ごしていたわけではなく、1943年12月には大本営陸軍部服部卓四郎作戦課長総裁のもとに、中国大陸からの本土爆撃対策の兵棋演習が行われ、一号作戦(大陸打通作戦)が立案された。翌1944年1月には総理大臣兼陸軍大臣東條英機大将からの指示で、大陸打通作戦の目的を中華民国南西部の飛行場の覆滅による日本本土爆撃の阻止として、1944年1月24日に大本営命令が発令された。日本軍は桂林、柳州地区にB-29が進出すると、東京を含む大都市がすべて爆撃の圏内に入るものと考え攻略することとしたが、アーノルドは、この頃行われていた日本陸軍の攻撃で中国軍が桂林、柳州を防衛できないと判断して、B-29の基地を成都まで後退させている。日本陸軍は建軍以来最大規模となる10個師団40万人の大兵力を動員し、1944年4月にまずは長沙、その後1944年11月には桂林、柳州の飛行場も占領したが、すでにもぬけの殻であり、作戦自体は日本軍が中華民国軍に多大な損害を与えつつ目的の地域の攻略には成功したが、肝心のB-29鹵獲という最大の目的は達成できなかった。 同年4月26日、ビルマ戦線(ビルマ航空戦)にて、単機移動中の第444爆撃航空群所属のB-29が中印国境にて日本陸軍(陸軍航空部隊)飛行第64戦隊の一式戦闘機「隼」2機と交戦。双方ともに被弾のみで墜落はなかったが、これがB-29の初戦闘となった。日本軍の隼の攻撃を何度も受けて多数の命中弾を受けながら何の支障もなく飛行するB-29に日本軍は衝撃を受け、アメリカ軍は作戦への自信を深めている。 その後、燃料や物資の蓄積ができた第20空軍は、1944年6月5日に第20爆撃集団にタイ首都のバンコクの爆撃を命じたが、これは搭乗員の育成も目的の任務であった。98機のうち48機だけが目標上空に到達したが、残りは機械的故障で引き返したか、進路を見失って目標まで到達できなかったかであった。到達した48機に対しては、日本軍戦闘機と高射砲による激しい攻撃があったが、戦闘で失われたB-29は1機もなかった。しかし、爆撃を終えて帰還中に5機のB-29が墜落し、搭乗員15名が戦死ないし行方不明となっている。 アーノルドはバンコク空襲の翌日となる1944年6月6日、第20爆撃集団に対して「統合参謀本部は、中国に対する日本軍の圧力を軽減するため、そしてまた6月中旬に予定されているマリアナ諸島にたいするアメリカ軍の上陸作戦と呼応するために、日本本土に対する早期の航空攻撃を要求している」という至急電を打った。司令官のウルフは、先日出撃したばかりであり、日本本土空襲に投入できるB-29は50機に満たないと報告したが、アーノルドは75機以上を投入せよと命令し、ウルフはどうにか燃料や資材をかき集めて75機が出撃できる準備をすると、6月13日に83機のB-29が英領インドから成都の飛行場に進出した。
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