ビルマ航空戦
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詳細は「一式戦闘機#ビルマ航空戦」を参照 各地を制圧した第64戦隊は1942年3月21日からビルマ戦線(「ビルマ航空戦」)に参戦。以後、主にイギリス空軍およびアメリカ陸軍(初期はフライング・タイガース(AVG)を含む)と交戦し、同月23日には損害無くハリケーン1機を撃墜(第136飛行隊ブラウン少尉機)し同戦線における初戦果を収めている。このビルマ航空戦に第64戦隊および飛行第50戦隊は長期間従軍しまたエース・パイロット多数を輩出、一式戦を主力とし大戦末期に至るまで連合軍空軍と互角の戦いを繰り広げた。 第64戦隊の一式戦は1942年6月4日までの空戦で最低でも連合軍機10機撃墜(協同撃墜のB-17E 1機を含む)、損害は11機喪失。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機6機・爆撃機4機で、一式戦10機喪失はP-40によるものであった。
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ビルマ航空戦
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「スーパーマリン スピットファイア」の記事における「ビルマ航空戦」の解説
詳細は「一式戦闘機#ビルマ航空戦」を参照 イギリス空軍はビルマの制空権はスピットファイアによって獲得されたとその性能を高く評価した。イギリス空軍公刊戦史によると、スピットファイアの日本軍機相手のキルレートは8対1であり、スピットファイアなくしてイギリス軍の勝利はなかったとしている。一例を上げるとニュージーランドの撃墜王アラン・パートは単機で飛行場を襲撃した日本軍機20機相手に40分間互角以上に戦い、1機を撃墜するという凄まじい戦果を上げた。 オーストラリア防空戦の後の1943年後半、背後にイギリス領インド帝国を持つ極東太平洋戦域におけるイギリス空軍の主戦場であり、中華民国内に拠点を持つ同盟軍アメリカ陸軍航空軍と共に日本陸軍航空部隊と対峙するビルマ戦線(「ビルマ航空戦」)に、ハリケーンの後続としてスピットファイアは投入された。チッタゴン飛行場に配備されたスピットファイア3個中隊は一〇〇式司偵3機を初陣で落とした。同方面でのスピットファイアの本格的交戦は1943年11月22日である。当時、日本陸軍飛行第50戦隊と飛行第33戦隊の一式戦「隼」22機が、イギリス空軍の基地であるチッタゴン飛行場に侵攻、現地のRAFはレーダーで来襲を探知しスピットファイア10機とハリケーン57機を迎撃に揚げた。しかし、スピットファイアMk.V 1機(第615飛行隊レオナード少尉機)とハリケーン1機(第146飛行隊グリフィス軍曹機、水田に不時着)が一式戦「隼」に一方的に落とされ、RAFが狙った一式戦「隼」を撃墜することは出来ず、日本陸軍戦闘隊は喪失なく全機が無事に帰還した。RAF側はレーダーで来襲を探知し、約3倍と圧倒的な数の戦闘機で邀撃出来たにかかわらず、ビルマ航空戦で初陣を飾ったスピットファイアはまたしても登場早々一式戦に一方的に撃墜された。 同年12月5日、日本軍は戦爆連合をもってイギリス領インド帝国のカルカッタを爆撃する龍一号作戦を実施した。(本作戦は、ビルマでの航空作戦を担当する日本陸軍航空部隊のみならず少数ながら日本海軍航空部隊も参加し、零戦および一式陸上攻撃機が投入されている。) 侵攻に先立ち各地に飛んでいた一〇〇式司偵がチャフを散布し、日本軍のマグエ飛行場群からは飛行第64戦隊、第33戦隊、飛行第204戦隊の一式戦74機と飛行第98戦隊の九七式重爆撃機17機、続いて第三三一海軍航空隊の零戦27機、第七〇五海軍航空隊の一式陸攻9機が出撃しカルカッタを目指した。侵攻途中で第258飛行隊のハリケーンの奇襲を受け九七重爆1機を喪失するも、援護する一式戦「隼」はこれを撃墜、また爆撃自体も成功し任務は成功を収めた。この迎撃戦でイギリス空軍はスピットファイア1機とハリケーン10機を喪失、一式戦「隼」はこのうちスピットファイア1機とハリケーン7機を撃墜、零戦はハリケーン3機のみを撃墜、日本軍戦闘隊に喪失は無く一方的な戦闘であった。1943年12月31日には日本軍の戦爆連合がアラカン南部を爆撃、12機のスピットファイアが迎撃し日本軍は5機の重爆を失い1機の戦闘機を失った。1944年1月15日スピットファイア中隊は日本軍の送り込んだ単発戦闘機の全て(撃墜16、大破5、損害19機)を撃破した。 1944年1月15日に、各中隊にわかれ、8機ずつモンドウ等に順次制空を行う予定だった飛行第64戦隊の一式戦「隼」計24機は、的確な管制に導かれたスピットファイアと交戦、2機を撃墜したものの、開戦以来の古参も含む5機が撃墜され、64戦隊の開戦以来の大打撃を被った。 1月20日に、飛行第204戦隊の一式戦「隼」はスピットファイアMk.V 2機を撃墜(第607飛行隊ソール准尉機・ケネディ軍曹機)し3機を撃破、日本陸軍の損害は1機不時着のみ。また2月5日は、第64戦隊の一式戦「隼」は損害無くスピットファイア1機(第136飛行隊カーロン曹長機)とハリケーン2機(第11飛行隊ブライト中尉機・コーベット軍曹機)を撃墜した。 2月13日、飛行第64戦隊の一式戦「隼」の英軍弾薬集積所を攻撃、上空直掩をしていた隼がスピットファイアと戦闘、損害を与えることはできず、1機を喪失した。 3月17日午後に第204戦隊は15機でモーニン飛行場を攻撃し、第81飛行隊のうち、かろうじて地上攻撃を免れたスピットファイア2機と交戦、1機を喪失するも、エースかつ指揮官機たるスピットファイア1機を撃墜(第81飛行隊長ホワイタモア少佐機)、離陸態勢の1機を撃滅(クールーター大尉機、炎上)、さらに2機を地上破壊している。 4月17日、25日の両日において、飛行第64戦隊の一式戦「隼」はスピットファイアと交戦、損害を与えることができず、1機が被弾により飛行継続困難となり自爆、1機が撃墜されている。 5月6日、飛行第50、204戦隊は25機で8戦隊の双軽3機を護衛していたが、迎撃にあがった第607飛行隊のスピットファイア12機と交戦、損害を与えることはできずに一式戦「隼」1機が撃墜され、続く11日、64戦隊がスピットファイアと交戦し、一方的に1機撃墜された。同月14日にも、各戦隊から5機ずつ選抜された15機がスピットファイアと交戦、4機を被弾、損傷させたものの、1機が撃墜された。 6月17日、本来の航路を外れたウェリントンを撃墜した第50、204戦隊の隼計14機は、緊急出動した第607、615飛行隊のスピットファイアと交戦、1機を撃墜したものの、「P-38撃墜王」と呼ばれた五十嵐機を含む6機が一挙に撃墜されている。これは、隼がインパール作戦協力した最後の戦闘であった。 1943年7月2日から1944年7月30日の期間、ビルマ戦線における空戦で日本陸軍の一式戦「隼」は連合軍機135機を確実撃墜し、対する空戦損害は83機喪失のみ。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機70機、爆撃機等32機、輸送機等33機に上り、戦闘機の詳細はハリケーン24機、スピットファイア18機、P-51 15機、P-38 8機、P-40 4機、P-47 1機。逆に一式戦「隼」を撃墜した連合軍戦闘機の詳細はハリケーン3機、スピットファイア16機、P-51 12機、P-38 13機、P-40 14機、スピットファイアまたはハリケーン3機等となる。 日本軍劣勢の大戦後期においても、ビルマで日本陸軍航空部隊は強力な連合軍空軍と互角の勝負を、時には勝利を収めており、一式戦「隼」とスピットファイアもまた撃墜、被撃墜機数ではほぼ同等であるなど、名実ともに互角以上の関係であった[要出典]。 1944年12月11日に、第273飛行隊のスピットファイアMk.VIII 12機はモンドウ地上攻撃から帰還中である第64戦隊の一式戦28機と交戦。一式戦「隼」を撃墜することは出来ず1機が撃墜された(第273飛行隊バリオン准尉機)。一方で1945年1月9日、アキャブ沖の連合軍艦船攻撃に来襲した第64戦隊の一式戦と第50戦隊の四式戦闘機「疾風」を、レーダー管制に導かれたスピットファイアが襲撃、第64戦隊長江藤豊喜少佐機やエース山本隆三軍曹機を含む計4機の一式戦「隼」を一方的に撃墜する戦果を残している。 大戦末期となる1944年8月18日から、日本の敗戦間際の1945年8月13日の約1年間にかけてビルマを初めとする東南アジア方面(イギリス領ビルマ、フランス領インドシナ、マレー、インドネシア、タイ王国等)を担当する日本陸軍第3航空軍戦域において、一式戦「隼」は連合軍機63機を撃墜(このほか一式戦が撃墜した可能性がある未帰還9機が存在し、それを含めた場合は連合軍機72機を撃墜)、対する空戦損害は61機喪失を記録。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機14機(18機ないし19機)・爆撃機等32機(36機ないし37機)・輸送機等17機に上り、戦闘機の詳細はP-47 4機、スピットファイア3機、P-38 2機、F4U 2機、P-51D 1機、F6F 1機、ハリケーン1機(先述の一式戦が撃墜した可能性がある連合軍未帰還機の内訳は、戦闘機等がハリケーン3機、F4U 1機、爆撃機等がB-29 2機、PB4Y-1 1機、B-24 1機、ファイアフライまたはTBF1機)。逆に一式戦「隼」を撃墜した連合軍戦闘機の詳細はスピットファイア7機、F6FまたはF4U 17機、P-38 11機、P-51 6機、P-47 6機であった。
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