戦隊長として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 01:57 UTC 版)
詳細は「一式戦闘機」を参照 1941年(昭和16年)4月、陸軍少佐・4代目戦隊長として広州天河飛行場駐留の飛行第64戦隊に着任。なお、第64戦隊は加藤がかつて中隊長を務めていた飛行第2大隊第1中隊と、同大隊第2中隊および独立飛行第9中隊の計3個飛行中隊が合同して1938年8月1日に編成された飛行戦隊である。 1941年8月末に部隊は新鋭の一式戦「隼」に機種改変を行い、ここに「加藤隼戦闘隊」が誕生した。 詳細は「一式戦闘機#南方作戦」を参照 太平洋戦争開戦後、第64戦隊と「隼」は各地の航空撃滅戦において連合軍を圧倒、加藤自身も積極的に「隼」に搭乗し戦隊長として空中指揮・戦闘に活躍し、南方作戦の成功に大きく貢献している。中でも1942年(昭和17年)2月14日、オランダ領東インド(インドネシア)パレンバン大油田地帯に対して行われたパレンバン空挺作戦において、奇襲空挺攻撃を行う第1挺進団(空の神兵)の護衛・援護を第64戦隊と第59戦隊の「隼」が担当した際には(加藤は戦闘隊指揮官として第59戦隊を含む統一指揮)、イギリス空軍のホーカー ハリケーン2機を確実撃墜している(マクナマラ少尉機・マッカロック少尉機、この撃墜戦果の内1機は加藤の戦果とされている。この他更に2機が燃料切れで不時着)。この空挺作戦において、「隼」と挺進兵を乗せた輸送機に損害はなく(唯一、爆弾倉を用いて物料箱の投下にあたっていた飛行第98戦隊の九七式重爆撃機1機が高射砲の攻撃により墜落のみ)、無事降下した挺進団はパレンバン油田・製油所・飛行場・市街地全てを1日で制圧している。これによって、日本軍は太平洋戦争の開戦意義であり最重要攻略目標である南方資源地帯確保を達成した。同年2月19日、陸軍中佐に昇進。 なお、第64戦隊は終戦までに計7枚(うち1枚は加藤の個人感状、飛行第2大隊時代を含めると計9枚)と日本軍最多数の感状を拝受しているが、うち3枚はマレー上陸作戦(船団護衛)・パレンバン空挺作戦・ジャワ上陸作戦の活躍によるものであった。 以下の一式戦の戦果は、戦史家梅本弘が日本軍の戦果記録を連合軍の損害記録たる一次史料と照会した「確認が出来た最小限で確実な数字たる戦果」である。第64戦隊・第59戦隊の一式戦は太平洋戦争緒戦の空戦において実質約4倍の数を、対戦闘機戦では約3倍の数の敵機を撃墜した。 1941年(昭和16)12月8日の開戦(マレー作戦開始)から1942年(昭和17)3月9日(蘭印作戦終了)の期間中第59戦隊・第64戦隊の一式戦は連合軍機61機撃墜(第59戦隊30機、第64戦隊27機、両戦隊協同4機)撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機43機 さらに蘭印作戦中にバタビア沖上空にて1機のB-17E(フランクリン機長、41-2503号機)を撃墜 日本軍側の空戦による損害は第59戦隊・第64戦隊計16機喪失(戦死11名・生還5名) 詳細は「一式戦闘機#ビルマ航空戦」を参照 各地を制圧した第64戦隊と一式戦は3月21日からビルマ戦線に転戦、このビルマ航空戦で主にイギリス空軍およびアメリカ陸軍航空軍(初期はフライング・タイガース(AVG)を含む)と交戦し、同月23日には損害無くハリケーン1機を撃墜(第136飛行隊ブラウン少尉機)し同戦線における初戦果を収めている。このビルマ航空戦に第64戦隊および飛行第50戦隊は長期間従軍しまたエース多数を輩出、一式戦を主力とし大戦末期に至るまで連合軍空軍と互角の戦いを繰り広げることとなる。
※この「戦隊長として」の解説は、「加藤建夫」の解説の一部です。
「戦隊長として」を含む「加藤建夫」の記事については、「加藤建夫」の概要を参照ください。
- 戦隊長としてのページへのリンク