截拳道創始
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1966年 - テレビ番組『グリーン・ホーネット』に出演のため、オークランドの道場はジェームズ・リーに任せ、ロサンゼルスに移住する。この頃、ダン・イノサントとの会話から「截拳道」という名称が誕生する(実際に名称を書面等で使用し始めたのは1967年頃)。 1967年 - ロサンゼルスに第3の振藩國術館を開設する。オープンフィンガーグローブ、キックミット、キックシールド等の練習用具を考案・開発し、練習に取り入れていく。また、ミト・ウエハラやテッド・ウォン、ダン・リー、ジェリー・ポティート、ハーブ・ジャクソン、ボブ・ブレマー、ピーター・チンなどの弟子達をスパーリングパートナーとして截拳道のさらなる進化に努める。後にミト・ウエハラは「私が疲れ果てると、テッド・ウォンを呼ぶ。私たちが音を上げるまで決してやめなかった。ウォンと私が降参するのを見て楽しんでいたんです」と回想しており、生徒たちに言わせると、彼らは「ブルースの蹴りを受ける人形」だったとのこと。同年、截拳道がアメリカの格闘技雑誌であるブラック・ベルト誌に紹介され、マスコミ初登場となる。以後、振藩功夫から昇華した截拳道は、シンプル・ダイレクト・ノンクラシカルを主眼とし、ブルース・リーの名声とともに格闘家・武術家のみならず世界中の人々から注目を浴びる。 1968年 - 再びロングビーチ国際空手選手権大会にダン・イノサントと共に参加し、截拳道のデモンストレーションを行う。当時としては非常に珍しい防具やオープンフィンガーグローブをつけてのフルコンタクトスパーリングを披露した。 1969年 - 道場での多人数への指導に熱意を無くし始めたリーは、ロサンゼルスの道場をダン・イノサントに任せ、少人数制のプライベート指導形式(弟子には、テッド・ウォンのほか、スティーブ・マックイーン、ジェームズ・コバーンなどのハリウッド俳優、カリーム・アブドゥル・ジャバー、ジョー・ルイスなどのスポーツ選手/格闘家もいた。)に移行していく。同年、振藩功夫及び截拳道のランキングシステム(昇段システム)も廃止する。この頃、詠春拳含む中国式の伝統武術への信頼も失くしたことを葉問の愛弟子であり友人のウィリアム・チュンに手紙で打ち明けている。 1970年 - シアトル・オークランド・ロサンゼルスの3ヶ所の振藩國術館を全て閉鎖する。理由は、生徒達が截拳道には何か特別な技法が有り、それを学びたいと幻想していた事によるものだが、特定のリードパンチへの妄信がその最たる例であり、ブルース・リーと元夫人リンダの言葉を借りれば、截拳道とは、限定的なメソッドでもなければ、固定化されたスタイルでもなく、弛まぬ自己研磨によって成長、進化し続ける道、そのプロセスそのものと言える。 1971年 - ジョー・ルイスの空手大会でのKO勝利に貢献したとして、TRAINER-COACH OF THE YEARにブルース・リーが選出される。同年、映画出演及び制作のため、香港へ移住する。移住後はワークアウトパートナー無しの一人研鑽となる。 1973年 - ブルース・リー急逝。リーは生前、ジークンドーは便宜上の呼び名に過ぎず、弟子達はそれぞれの道を歩む必要があり、ジークンドーとはこういう技だとかスタイルだとか言う者が現れたらジークンドーの名前を剥ぎ取ってしまえと主張しており、ジークンドーの名称及び使用権の法定相続人である娘のシャノン・リーは著書「友よ、水になれ」で「これ(ジークンドー)を体系(システム)や流派(スタイル)と呼ぶのを避けようとした。こうした言葉は人と人とを切り離し、人と芸術性を限定しがちだからです。ジークンドーという名称にとらわれ、何がジークンドーで何がジークンドーでないかを議論するくらいなら、そんな名称は消えてしまった方がいい、とまで父は言いました。」と記している。生前最後の撮影となった燃えよドラゴンの冒頭シーンでは、現在の総合格闘技の原型と言える打・投・極有りのフルコンタクトスパーリングを披露しており、このシーンで使用されているオープンフィンガーグローブは、ダン・イノサントと共同で開発したものである。
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