前身・編成
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1938年(昭和13年)8月1日、河南省安陽の彰徳飛行場において飛行第2大隊第1・第2中隊(立川飛行第5連隊にて編成)と、独立飛行第9中隊(平壌飛行第6連隊にて編成)の計3個飛行中隊が合同して飛行第64戦隊が編成された。初代第64戦隊長は寺西多美弥少佐(旧飛行第2大隊長)、加藤建夫大尉は旧飛行第2大隊の第1中隊長であった。 なお、第64戦隊の編成前より九五式戦闘機、のちには九七式戦闘機を装備する飛行第2大隊は日中戦争(支那事変)において中国空軍(国民革命軍)を相手に活躍しており、1938年3月26日に第2中隊は北支航空戦の帰徳における空戦での武勲から、帝国陸軍航空部隊の飛行部隊としては初めて部隊感状(北支那方面軍司令官寺内寿一大将名)を拝受、さらに4月29日には飛行第2大隊自体が部隊感状(航空兵団司令官徳川好敏中将名)を授与されているなど、当時から日本陸海軍航空部隊では有数のエース部隊の頭角を現している。 加藤大尉は同年5月、陸軍大学校(専科)入校及び陸軍航空本部員拝命の辞令を受け北支戦線従軍中の飛行第2大隊第2中隊を離れ日本に帰国しているが、8月に改変された第64戦隊は引き続き武漢作戦や南支航空戦に従軍。さらに1939年(昭和14年)7月にはノモンハン事件に参加、ソ連赤色空軍を相手とするノモンハン航空戦では第2代戦隊長横山八男少佐が撃墜される(生存)など激戦を戦い抜き、戦果を挙げた。 陸大を卒業し航本部員として欧米各国を歴訪していた加藤少佐は帰国後の1941年(昭和16年)4月10日、第4代戦隊長として当時広東に駐屯していた第64戦隊に着任。部隊名(隊号)こそ変わっているものの再び古巣に戦隊長として帰ってきたことになる。同年6月1日にはさらに第64戦隊としては初の、第2大隊から数えては3枚目となる部隊感状(南支那方面軍司令官後宮淳中将名)を拝受。
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