前身・鎌倉将軍府
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元弘3年(1333年)12月、足利尊氏の弟・直義は相模守に補任され、成良親王を奉じて鎌倉に下向、鎌倉府の前身となる鎌倉将軍府が成立した。その背景としては、当時の鎌倉は尊氏の子・義詮を中心とする足利勢の占領下にあったが、公式には認められておらず、新田義貞の巻き返しもあったため、鎌倉幕府滅亡後の関東が不安定な状態だったことがある。鎌倉将軍府の設置により、尊氏は鎌倉占領の合法化に成功する。 後醍醐天皇は中央集権を志向していたため、このように強大な権限を持つ広域地方行政機関には消極的だった。しかし、関東で勢いを増す尊氏を牽制するために、北畠顕家に対し、義良親王を奉じて、広域地方行政機関・陸奥国府を奥羽(現在の東北地方)に設けることを認めると、尊氏はこれを逆手にとって、関東にも鎌倉将軍府の設置を認めさせたとされ、通説となっている。 これとは逆に、後醍醐天皇は鎌倉将軍府に積極的だったという意見もある。元弘3年(1333年)8月、尊氏を武蔵守に補任しているが、その背景には、北畠顕家の陸奥下向と同様、尊氏も関東に下向させる意向があったと考えられる。さらに関東では武蔵国の他にも、多くの国司や守護の地位が足利一門に与えられていることから、この時期には尊氏を信頼しており、後醍醐天皇は関東の安定化のために、尊氏自身による鎌倉将軍府を積極的に構想していたとも考えられている。
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