陸軍航空部隊の早期警戒
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「レーダーの歴史」の記事における「陸軍航空部隊の早期警戒」の解説
1943年後半のビルマ戦線(ビルマ航空戦)を例に、飛行第64戦隊の一式戦「隼」などからなる日本陸軍航空部隊(第3航空軍)の戦闘隊は、無線傍受解析(シギント)・電波警戒機(レーダー)・対空監視哨を主軸に前線で以下の早期警戒体制を構築していた。 第5飛行師団第3航空特情部(航空特種情報部)は連合国空軍の空地無線交信を傍受、何時何分・使用飛行場・機種・機数といった出撃情報を掌握(インド東部の連合軍飛行場より日本軍の要衝ラングーン(ヤンゴン)まで約1,000km・飛行時間約4時間) インド - ラングーンの中間地点アキャブ(ラングーンまで約1時間半)の対空監視哨が敵編隊を捕捉、機種・機数・高度・進行方向を報告。 ラングーンの日本陸軍防空戦闘隊はアキャブから情報があると操縦者はピスト(操縦者控所)で待機。 トンガップ・サンドウェー・ヘンサダ(ラングーン西北120km)等の各対空監視哨が敵編隊を捕捉し続報を伝達。 ラングーンから100km以内に入るとミンガラドンに配備した電波警戒機が機影を捕捉。 ラングーン防空高射砲部隊の対空監視哨が最後に捕捉。 以上の各情報は刻々と邀撃戦闘隊本部に電話で報告。空襲警報が発令され操縦者はピストを飛び出し搭乗・離陸。離陸開始後5分でインヤー湖(ビクトリア湖)上空3,000mに空中集合。 離陸した一式戦は機上無線電話で地上の戦闘指揮所より敵編隊方向への誘導を受け(対空誘導)、これを邀撃。 1943年11月27日ビルマ戦線、来襲したアメリカ陸軍戦闘機・爆撃機連合84機を第64戦隊第3中隊の僅か9機の戦闘機(一式戦8機・二式戦「鍾馗」1機)が邀撃、2機の喪失と引き換えに戦闘機6機・爆撃機3機を確実撃墜する大戦果を挙げているが(米側被撃墜9機は裏付の取れている確実な記録)、この空戦にて第64戦隊機は電波警戒機が探知した米機位置情報を無線電話によって空中受信、地上誘導を受け有利な位置で攻撃を行っている(特に黒江保彦大尉機はミンガラドン基地と無線電話で頻繁に通信し次々に電波警戒機による敵機情報を受信)。さらに特筆に価する点として、ビルマ航空戦において大戦後期たる1943年7月2日から1944年7月30日の期間、日本陸軍の一式戦は空戦で83機の喪失と引き換えにスピットファイア18機・P-51A 15機・B-24 21機を含む連合軍機135機の確実撃墜を記録している(機種内訳は戦闘機70機・爆撃機等32機・輸送機等33機)。単純に撃墜戦果の比較で日本軍劣勢の1944年半ばにおいても日本陸軍航空部隊は連合軍空軍と互角ないしそれ以上の勝負を行っていた。
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陸軍航空部隊の早期警戒
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「超短波警戒機乙」の記事における「陸軍航空部隊の早期警戒」の解説
1943年後半のビルマ戦線(ビルマ航空戦)を例に、飛行第64戦隊の一式戦「隼」などからなる日本陸軍航空部隊(第3航空軍)の戦闘隊は、無線傍受解析(シギント)・電波警戒機(レーダー)・対空監視哨を主軸に前線で以下の早期警戒体制を構築していた。 第5飛行師団第3航空特情部(航空特種情報部)は連合国空軍の空地無線交信を傍受、何時何分・使用飛行場・機種・機数といった出撃情報を掌握(インド東部の連合軍飛行場より日本軍の要衝ラングーン(ヤンゴン)まで約1,000km・飛行時間約4時間) インド - ラングーンの中間地点アキャブ(ラングーンまで約1時間半)の対空監視哨が敵編隊を捕捉、機種・機数・高度・進行方向を報告。 ラングーンの日本陸軍防空戦闘隊はアキャブから情報があると操縦者はピスト(操縦者控所)で待機。 トンガップ・サンドウェー・ヘンサダ(ラングーン西北120km)等の各対空監視哨が敵編隊を捕捉し続報を伝達。 ラングーンから100km以内に入るとミンガラドンに配備した電波警戒機が機影を捕捉。 ラングーン防空高射砲部隊の対空監視哨が最後に捕捉。 以上の各情報は刻々と邀撃戦闘隊本部に電話で報告。空襲警報が発令され操縦者はピストを飛び出し搭乗・離陸。離陸開始後5分でインヤー湖(ビクトリア湖)上空3,000mに空中集合。 離陸した一式戦は機上無線電話で地上の戦闘指揮所より敵編隊方向への誘導を受け(対空誘導)、これを邀撃。 1943年11月27日ビルマ戦線、来襲したアメリカ陸軍戦闘機・爆撃機連合84機を第64戦隊第3中隊の僅か9機の戦闘機(一式戦8機・二式戦1機)が邀撃、2機の喪失と引き換えに戦闘機6機・爆撃機3機を確実撃墜する大戦果を挙げているが(米側被撃墜9機は裏付の取れている確実な記録)、この空戦にて第64戦隊機は電波警戒機が探知した米機位置情報を無線電話によって空中受信、地上誘導を受け有利な位置で攻撃を行っている(特に黒江保彦大尉機はミンガラドン基地と無線電話で頻繁に通信し次々に電波警戒機による敵機情報を受信)。さらに特筆に価する点として、ビルマ航空戦において大戦後期たる1943年7月2日から1944年7月30日の期間、日本陸軍の一式戦は空戦で83機の喪失と引き換えにスピットファイア18機・P-51A 15機・B-24 21機を含む連合軍機135機の確実撃墜を記録している(機種内訳は戦闘機70機・爆撃機等32機・輸送機等33機)。単純に撃墜戦果の比較で日本軍劣勢の1944年半ばにおいても日本陸軍航空部隊は連合軍空軍と互角ないしそれ以上の勝負を行っていた。
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