陸軍航空総監部の閉鎖
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「陸軍航空総監部」の記事における「陸軍航空総監部の閉鎖」の解説
1945年(昭和20年)に入ると戦況はさらに不利なものとなった。同年1月20日、帝国陸海軍作戦計画大綱が大本営により策定され、これにもとづいて本土決戦に備えた大々的な兵備増強が開始された。同年2月、陸軍中央は「在内地陸軍航空教育部隊編成、復帰要領」(軍令陸甲第27号)により、航空総監に隷属し基本教育を行う熊谷、大刀洗の各陸軍飛行学校、および所沢、岐阜の各陸軍航空整備学校を閉鎖し、人員および装備器材をそれぞれ新設の第52航空師団、第51航空師団、第3航空教育団、第4航空教育団に編入した。同年3月31日、前述の計画大綱にもとづき、航空の機動力を活用する一元的運用を目的として、航空総軍司令部臨時編成要領(軍令陸甲第54号)により本土防衛に関係する航空諸軍を統率する天皇直隷の航空総軍編成が発令され、同年4月15日に編成が完結した。航空総軍は隷下の軍隊を指揮して作戦指導を行うほか、人材、資材を補充、補給する機能を与えられ、航空の特質である作戦、軍政、教育の一体化を最大限に推進したものとなった。航空総軍司令部は各部長および職員の多くが航空本部と兼務であり、航空総監部の人員によって充当された。 同年4月18日、こうした事情にともなって「陸軍航空総監部令ノ適用停止ニ関スル件」(軍令陸第10号)および「陸軍航空総監部医務部令ノ適用停止ニ関スル件」(勅令第229号)が施行され、航空総監部は閉鎖された。これは厳密には廃止ではなく、前述軍令および勅令の文面に「当分ノ内」と記され、勅令の理由書に「一時停止」とあるように、陸軍中央の意図は航空総監部再開の可能性を残したものであった。 同年8月14日、御前会議においてポツダム宣言の受諾が最終決定され、翌15日正午より終戦に関する玉音放送が行われた。日本は戦争に破れ、航空総監部と二位一体であった航空本部は同年11月15日廃止となった。さらに同年11月30日、各省官制通則改正(勅令第674号)の施行により陸軍省が廃止され、翌12月1日に第一復員省となったことで陸軍は解体され、陸軍航空総監部が再開されることはなかった。
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