陸軍航空本部教育部長
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1943年(昭和18年)3月 陸軍少将に昇進し、同年5月 陸軍航空本部教育部長 総理大臣兼陸軍大臣の東條英機が、1943年9月に陸軍部内向けの訓示で、航空機の増産と共に「航空要員養成は有ゆる手段を尽くし施設資材の許す最大限を実施せねばならない」と強い口調で指示をするほど、陸軍は航空兵を大量に育成する必要に迫られていたが、隈部は教育部長として、先頭に立って航空兵の育成に尽力している。航空兵の大量育成に大きく貢献したのが、10月に閣議決定された教育ニ関スル戦時非常措置方策による学徒出陣であり、特別操縦見習士官の大量募集が行われ、航空兵の大増員が進められた。 自分の長男靖 陸軍少尉が、慶應義塾大学卒業後に特別操縦見習士官1期生となり、熊谷陸軍飛行学校で訓練をしていた陸軍次官富永恭次中将から、見習航空兵の操縦教育は非常に危険が多いのにも関わらず、訓練用飛行場には軍医が一人も配置されていないことを指摘されて、隈部は見習航空兵の医療充実を図り、72名の軍医が地上部隊から航空部隊に転属させている。また、食事も改善させ、国内でも食糧事情が悪化して高級士官もとうもろこし、栗、さつまいも等を混入した麦飯を食べていたのにも関わらず、見習士官たちも前線の空中勤務者と同様に、高空で気圧の低い所へ行くと腸内のガスが膨張して腹部不快を起すのを防止するため、雑穀を避けて消化の良い純米の白米を主食として、体力を維持するため、肉や魚の動物性脂肪分と卵、牛乳等を毎食支給させた。さらにはウィスキーや清酒といった酒類や、チョコレートや飴といった甘味品もふんだんに支給されるようにした。陸軍航空技術研究所、陸軍第七技術研究所、東京大学に巨費を投じて開発を命じていた、航空医学に基づく栄養食品「航空糧食」も積極的に支給させた。特別操縦見習士官が支給された「航空糧食」は「航空ビタミン食」「腸内ガス無発生食品」「航空元気酒」「疲労回復酒」「防吐ドロップ」「早急出動食」「鉄飴」などで、航空病を予防し、パイロットの能力を最大限発揮させることができたという。このようにして大事に育成された特別操縦見習士官1期生は、富永の長男靖も含めて2,336名が少尉として任官し、陸軍航空隊航空士官の主力となって活躍した。
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