陸軍航空学校明野分校
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「明野陸軍飛行学校」の記事における「陸軍航空学校明野分校」の解説
詳細は「所沢陸軍飛行学校#陸軍航空学校」を参照 1919年(大正8年)4月、フランス航空団の教育指導と並行して陸軍航空の現業軍政と専門教育を統轄する陸軍航空部が設立され、同時に所沢に陸軍航空学校が開設された。同校の学生は甲種、乙種、丙種にわけられ、そのうち丙種学生は機関工術、射撃、爆撃等の修習をする学生であった。 同年10月までにフランス航空団の教育は終了したが、陸軍航空部は教育実施の立地を重視し、また所沢陸軍飛行場の広さが十分ではないことから空中射撃の教育を所沢以外で継続的に行うこととした。しかし新居町の施設も狭く、代替地を選定しなければならなかった。当初は米子町(鳥取県)付近、小川原沼(青森県)付近、浜名湖(静岡県)付近、八郎潟(秋田県)付近、猪苗代湖(福島県)付近、および宇治山田市(三重県)郊外の明野ヶ原が候補地とされ、気候、地形、飛行場を建設する場合の土質、人口密度その他の条件により明野ヶ原に決定した。同年12月、陸軍航空学校は教育部に操縦、機関、観測、射撃、爆撃の各分科教育班を設け、同校教官の赤羽少佐が射撃班長となった。 1920年(大正9年)3月、陸軍航空学校教育部射撃班は宇治山田市内に仮事務所を設置したのち、同年4月より明野ヶ原(正式には三重県度会郡)で将校9名、軍属工員21名により業務を開始し、空中射撃の教育を行った。同年8月、射撃班事務所は度会郡北浜村に建てられた施設に移転した。この当時より同施設は陸軍航空学校の「射撃分校」と呼ばれていたことが確認できる。ただし、この「射撃分校」は陸軍航空学校条例によらない非公式なものであった。 1921年(大正10年)3月、陸軍航空学校条例改正(軍令陸第1号)の施行により正式に分校の設置が可能となり、同年4月、三重県度会郡北浜村(現在の伊勢市北部)に陸軍航空学校明野分校が設置された。同分校では条例改正で新たに規定された特種学生、あるいは召集尉官等の教育が行われた。
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