陸軍航空本格化へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 14:24 UTC 版)
「所沢陸軍飛行学校」の記事における「陸軍航空本格化へ」の解説
第一次世界大戦の開戦以来、欧米列強の陸軍は急激に航空器材の研究、開発、生産、用兵思想、部隊の編成などを発達させたが、日本陸軍は技術力と航空施策の未発達により後れをとっていた。1917年(大正6年)11月の天皇統監による特別大演習では、参加した飛行機の多数に不時着事故が発生し、その他の事故も含め問題となった。当時の陸軍航空は飛行機の研究審査と制式決定を臨時軍用気球研究会が行い、国産エンジンの製造は航空と関係の薄い砲兵工廠が担当し、実際に飛行機を運用する航空大隊は鉄道や通信という性格の異なる部隊とともに交通兵団に編入され、陸軍省軍務局で航空を担当するのは工兵課であった。こうした統制に乏しい状況を改善するため1918年(大正7年)1月、陸軍省はかつて工兵課長等の職務で航空に関わった経験を持つ井上幾太郎少将を交通兵団司令部附として対策の任につかせた。井上は陸軍省と参謀本部がそれぞれ作成した研究案を踏まえ、同年3月、「航空兵科の独立」「航空部隊の交通兵団からの分離」「航空部隊を統括する航空兵団の設立」「臨時軍用気球研究会を廃止し航空学校の設立」「陸軍省航空局の設置および航空機材の管理製造部門の設立」など7項目を骨子とする意見書を陸軍大臣に提出した。しかし井上の意見はすぐに実現可能なものと時期尚早とされるものがあり、調整が必要となった。翌1919年(大正8年)3月、陸軍の諸制度を調査する制度調査委員が実施の決議をしたのは、各航空大隊を交通兵団から所在地師団へ編入替えすることと、陸軍省軍務局航空課の設置、そして陸軍航空部(初代本部長は井上少将)および陸軍航空学校の創設であった。
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