陸軍航空総監部の設立
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「陸軍航空総監部」の記事における「陸軍航空総監部の設立」の解説
1938年(昭和13年)春ごろより、陸軍中央ではドイツ空軍の再建ぶりに刺激され、航空独立論が再燃し始めた。航空兵科専門教育を専任する天皇直隷機関として「航空総監部」を創設し、陸軍航空の中核的機関とする案が参謀本部の中で立てられ、陸軍省軍事課内でも同意された。これは陸軍内で航空が半独立的な地位を得ようとするものであり、一号軍備によって急速に拡大化と変質を遂げようとする陸軍航空には画期的なものとなるが、陸軍の伝統である教育統一を崩すものであり、また天皇直隷の機関を設けることは従来の陸軍三長官制に反するとして教育総監部は強く反対した。しかし陸軍の主流には航空教育の特殊性に対する理解が深まっており、陸軍省軍務局の田中新一軍事課長、さらには東條英機陸軍次官(陸軍航空本部長兼務)による推進が決定力となった。 同年12月10日、陸軍航空総監部令(軍令第21号)が施行され、陸軍航空総監部(以下、場合により航空総監部と略)が創設された。その主な目的は理由書に「陸軍航空兵科軍隊ノ愈々複雑且専門化セルニ伴ヒ之ニ専任スル天皇直隷機関ヲ新設シ陸軍航空兵科軍隊教育ノ進歩発達ヲ図ルノ要アルニ因ル」と書かれているように、専任の機関を設けることでより良く航空教育の特殊性と陸軍航空の拡大に対応させることである。前述軍令第1条で航空総監部は「陸軍航空兵科軍隊ノ教育ニ関スル事項ヲ掌ル所」であり、第2条でその長官は「陸軍大将又ハ陸軍中将ヲ以テ之ニ親補シ天皇ニ直隷」する陸軍航空総監(以下、場合により航空総監と略)と定められた。航空総監を天皇直隷の親補職とすることは陸軍部内における航空の地位を高めることになり、航空本部長が陸軍大臣の隷下にあり親補職である航空兵団司令官よりも格下であった問題の解決にもなった。 ただし航空総監は軍政および人事に関しては陸軍大臣、作戦計画に関する事項および動員計画に関しては参謀総長、航空兵科専門以外の教育に関しては教育総監の区処を受けるとされており、権限に制約があるため三長官と同格なものではなかった。 陸軍航空総監部の編制は総務部(庶務課、第一課)および教育部(第二課、第三課、第四課)からなり、陸軍航空総監部令で各部の任務は次に挙げる各事項を掌ると規定された(1938年12月時点)。 総務部 総監部の業務整理に関する事項。 総監部の庶務、人事、給与、および用度に関する事項。 所轄学校の編制、制度、および動員に関する事項。 所轄学校の兵器業務に関する事項。 所轄学校の会計経理に関する事項。 教育部 航空兵科軍隊の教育に関する事項。 所轄学校に関する事項(総務部の所掌事項を除く)。 航空兵の演習に関する事項。 航空兵関係の典令範に関する研究、審議、編纂等に関する事項。 これによって陸軍航空は航空本部が軍政を、航空総監部が専門教育を担当する体制で統御、管理された。しかし航空総監(初代航空総監は東條英機中将)は航空本部長を兼務し、編制表で定められた航空総監部の人員(1938年12月時点の定員は42名)は3名を除きすべて航空本部の総務部および第一部の部長、課長、部員が兼務とされ、実態は航空総監部と航空本部が「二位一体」であった。こうした体制は従来陸軍航空の軍政と専門教育をあわせて統轄していた航空本部長が編制上陸軍大臣に隷する職であり、その航空本部長を何の手も加えないまま親補職に改めることが困難であるための便法ともいえる。航空総監部は航空本部と同じ東京市麹町区永田町隼町(通称:三宅坂)の庁舎で事務を行った。 1941年(昭和16年)8月、陸軍航空総監部令改正(軍令陸第17号)が施行され、総務部の任務に「所轄学校の衛生医事に関する事項(衛生材料に関する業務を除く)」を掌ることが加わった。 同年12月8日、日本は米英など連合国を相手とする太平洋戦争に突入した。同日、航空総監部および航空本部は東京市牛込区市谷本村町の陸軍士官学校跡地(通称:市谷台)に移転した。教育総監部は同月1日に市谷台に移転しており、翌週の15日には陸軍省および参謀本部も同地へ移転した。
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