陸軍航空技術研究所の設立
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「陸軍航空技術研究所」の記事における「陸軍航空技術研究所の設立」の解説
1935年(昭和10年)8月、陸軍航空技術研究所令(勅令第222号)の施行により陸軍航空技術研究所(以下、場合により航空技術研究所または研究所と略)が設立された。同令第1条で航空技術研究所は「航空に関する器材、燃料等の考案および審査を為し かつ航空技術に関する調査、研究、および試験を行い その改良進歩をはかる」と定められた。研究所の編制は陸軍航空本部長に隷属する所長以下、企画科、調査科、および第1から第6までの各科である。研究所の定員は将校、技師57名、准士官、下士官、技手49名の計106名となっていた。所在地はそれまでの陸軍航空本部技術部とかわらず東京府立川町である。 1937年(昭和12年)7月末、陸軍航空技術研究所令の一部改正(勅令第377号)が施行された。これにより航空技術研究所の業務に航空衛生に関する調査、研究、および試験と、航空被服および糧食の性能に関する試験が加えられた。また上記改正で新たな研究所の編制は総務部(第1科、第2科)、第一部(第3科、第4科、第5科)、第二部(第6科、第7科、第8科、第9科)となった。各科の分掌は次のとおり(1937年8月時点)。 陸軍航空技術研究所 総務部:第1科 - 庶務。第2科 - 経理。第一部:第3科 - 飛行機。第4科 - 発動機。第5科 - 飛行。第二部:第6科 - 武器、弾薬。第7科 - 無線および電機、計測器および航法器材、写真器材。第8科 - 燃料。第9科 - 航空衛生および心理、航空衣糧、その他。 同年勃発した支那事変(日中戦争、初期の名称は北支事変)において陸軍航空部隊は黄砂を吸い込むことで飛行機のハ‐5発動機内部が異常摩滅し、搭載機の全機使用停止となりかねない危機に陥ったが、航空技術研究所は大胆な試験器材要求による原因究明で事態を収拾した。支那事変以降、航空に関する兵器の需要が急増し航空技術研究所は敷地、建物、施設、予算および人員が拡充されていった。事変前の1936年(昭和11年)に予算が約516万円、人員620名(うち将校、技師52名)であったものが1939年(昭和14年)には予算が約3,253万円、人員1,476名(うち将校、技師110名)となった。 1938年(昭和13年)8月、航空技術研究所は満州における気象、地形等に即応した航空兵器、燃料、脂油等の調査、研究、試験を行うため満州国ハルビン市に哈爾浜(ハルビン)出張所を設置した。同出張所の定員は20名、初代所長は神田実中佐が補職され、所長および3名の所員は関東軍司令部兼務であった。同年、第9科(旧航空本部技術部航空衛生班)が所沢より立川に移転した。また、この年には研究所拡張用地として10万9,508坪(約36万平方メートル)の土地を航空本部が取得している。1939年(昭和14年)8月、前述の哈爾浜出張所は航空技術研究所満州支所に改編された。 1939年12月、航空技術研究所とは異なる実験機関として陸軍飛行実験部(以下、場合により飛行実験部と略)が設置された。以後、試作飛行機の実用試験審査の担任は研究所から飛行実験部に移管された。これは従来研究所の第5科において優秀な操縦者がテストパイロットを担当しているものの、研究所の編制内では技術者の意見が偏重され公正な判断が下されないとしたものである。ただし航空技術研究所はその後も第5科を有し基本審査を行ったため実用試験審査のための試作飛行機が予定通り陸軍飛行実験部に渡らず、審査を遅延させる結果となった。飛行実験部は当初航空技術研究所の一角に設置され、翌1940年4月、近隣の西多摩郡福生村に移転した。
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