陸軍習志野学校校長から憲兵司令官まで
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「中島今朝吾」の記事における「陸軍習志野学校校長から憲兵司令官まで」の解説
1933年(昭和8年)8月1日、陸軍習志野学校初代校長を命じられる. 1934年(昭和9年)5月18日、群馬県群馬郡桃井村(現・榛東村)の相馬原で陸軍習志野学校幹事である今村均大佐の計画・実施で日本初の毒ガスを用いた演習を行った。だが不備が生じ、誤って毒を吸った者が続出して上等兵が亡くなった。これにより、真崎甚三郎教育総監は今村を退役処分にするつもりであったが、今朝吾が真崎教育総監の他、林銑十郎陸軍大臣と参謀総長閑院宮載仁親王に直訴し、身を挺して今村を守ったため、今村は不問に付された。 1936年(昭和11年)2月26日、東京で皇道派の青年将校らによってクーデターが起こされた(二・二六事件)。一貫性のない陸軍中央の動きとは違い、早くから反乱軍鎮圧を口にしていた今朝吾であったが, 2月28日になり、催涙弾、くしゃみ弾を携行して東京に出撃するようにとの命令が下り、出発する。 3月7日、中将に昇進する. 3月23日には憲兵司令官を命じられる。以後、皇道派の放逐、粛軍に加担する。憲兵司令官就任、これには同郷であり、陸軍幼年学校、陸軍士官学校の同期であり、親友である、新陸軍次官梅津美治郎中将の引き立てがあった。 1937年(昭和12年)1月、広田弘毅内閣が総辞職を行った。それにより、次期首班が宇垣一成大将となることもほぼ明白となった。そして陸軍に宇垣大将にいよいよ大命が下されるとの情報が入ってきた。 石原莞爾参謀本部第一部長心得を中心とする統制派の中堅層は、軍部主導での政治を行うことを目論んでおり、かつて四個師団を廃止するなどの軍縮(宇垣軍縮)を断行した宇垣などが首相になれば自分たちを圧迫し、自分たちの政策が実現できないと考え、なんとしてもこの宇垣の組閣を阻止しようと動きだした。石原は自身の属する統制派、参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、寺内寿一陸軍大臣も説得し、宇垣に対して自主的に大命を拝辞させるように「説得」する命令を寺内大臣から憲兵司令官であった今朝吾に出させた。 24日夜、憲兵によって宇垣の動きを掴んでいた今朝吾は、宇垣が組閣の大命を受けようと皇居に参内する途中、宇垣の車を多摩川の六郷橋で止めその車に乗り込んで、寺内大臣からの命令であると言い、今回の大命を拝辞するようにと宇垣を「説得」した。だが、宇垣はこれを無視して参内し、大命を受けた。しかし石原の工作は「宇垣四天王」と呼ばれた杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官にも及び、結局誰一人として宇垣内閣の陸軍大臣を引き受ける者はいなかった。これによって宇垣は組閣を断念し、宇垣内閣は流産してしまった。 またこの間、今朝吾は宇垣の組閣参謀であった松井石根大将や衆議院議員の船田中に直接電話をして宇垣への加担をやめるように言っている。
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