陸軍習志野学校校長から憲兵司令官までとは? わかりやすく解説

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陸軍習志野学校校長から憲兵司令官まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:20 UTC 版)

中島今朝吾」の記事における「陸軍習志野学校校長から憲兵司令官まで」の解説

1933年昭和8年8月1日陸軍習志野学校初代校長命じられる. 1934年昭和9年5月18日群馬県群馬郡桃井村(現・榛東村)の相馬原で陸軍習志野学校幹事である今村均大佐計画実施日本初毒ガス用いた演習行った。だが不備生じ誤って毒を吸った者が続出し上等兵亡くなった。これにより、真崎甚三郎教育総監今村退役処分にするつもりであったが、今朝吾が真崎教育総監の他、林銑十郎陸軍大臣参謀総長閑院宮載仁親王直訴し、身を挺して今村守ったため、今村不問付された。 1936年昭和11年2月26日東京皇道派青年将校らによってクーデター起こされた(二・二六事件)。一貫性のない陸軍中央の動きとは違い早くから反乱軍鎮圧を口にしていた今朝であったが, 2月28日になり、催涙弾くしゃみ弾を携行して東京出撃するようにとの命令下り出発する3月7日中将に昇進する. 3月23日には憲兵司令官命じられる以後皇道派放逐粛軍加担する憲兵司令官就任、これには同郷であり、陸軍幼年学校陸軍士官学校同期であり、親友である、新陸軍次官梅津美治郎中将引き立てがあった。 1937年昭和12年1月広田弘毅内閣総辞職行った。それにより、次期首班宇垣一成大将となることもほぼ明白となった。そして陸軍宇垣大将にいよいよ大命下されるとの情報入ってきた。 石原莞爾参謀本部第一部心得中心とする統制派中堅層は、軍部主導での政治を行うことを目論んでおり、かつて四個師団廃止するなどの軍縮宇垣軍縮)を断行した宇垣などが首相になれば自分たちを圧迫し自分たちの政策実現できない考えなんとしてもこの宇垣組閣阻止しよう動きだした。石原自身属す統制派参謀本部中心に陸軍首脳部突き上げ寺内寿一陸軍大臣説得し宇垣に対して自主的に大命拝辞させるように「説得」する命令寺内大臣から憲兵司令官であった今朝吾に出させた。 24日夜、憲兵によって宇垣動き掴んでいた今朝吾は、宇垣組閣の大命受けよう皇居参内する途中宇垣の車を多摩川六郷橋止めその車に乗り込んで寺内大臣からの命令であると言い今回大命拝辞するようにと宇垣を「説得」した。だが、宇垣はこれを無視して参内し大命受けた。しかし石原工作は「宇垣四天王」と呼ばれた杉山元教育総監小磯国昭朝鮮軍司令官にも及び、結局誰一人として宇垣内閣陸軍大臣引き受ける者はいなかった。これによって宇垣組閣断念し宇垣内閣流産してしまった。 またこの間今朝吾は宇垣組閣参謀であった松井石根大将衆議院議員船田中直接電話をして宇垣への加担をやめるように言っている。

※この「陸軍習志野学校校長から憲兵司令官まで」の解説は、「中島今朝吾」の解説の一部です。
「陸軍習志野学校校長から憲兵司令官まで」を含む「中島今朝吾」の記事については、「中島今朝吾」の概要を参照ください。

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