ビルマ独立義勇軍誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/24 20:33 UTC 版)
やがて1941年の夏が来た。ビルマでの武装蜂起の予定時期となっていたが、国際情勢は緊迫の度を深めていた。6月22日にナチス・ドイツがソ連へ進攻したのを機に、日本でもソ連を攻撃すべしとする北進論が唱えられ、陸軍は関特演を発動して7月に満州に大兵力を集結したが、結局ソ連との戦闘は起きなかった。一方で、東南アジアの資源地帯を抑えるべしとする南進論が唱えられ、7月末に南部仏印進駐を進めた。この進駐に対してアメリカは在米日本資産凍結、対日石油禁輸という強硬な経済制裁を発動した。このような情勢下、ビルマでの武装蜂起の予定にも軍中央から待ったがかけられた。先行きの見えない状況に、ビルマ青年たちも焦りの色を濃くした。 10月、三亜訓練所は閉鎖され、ビルマ青年たちは台湾の玉里へ移動した。その頃日本は対米英開戦に向けて動き出していた。10月16日近衛文麿内閣総辞職。後を継いだ東條英機内閣は11月1日の大本営政府連絡会議で帝国国策遂行要領を決定。11月6日、南方作戦を担当する南方軍以下各軍の編制が発令された。南機関も南方軍の直属とされ、本部は南方軍司令部と同じサイゴン(現在のホーチミン)へ移された。 12月8日、日本はアメリカ、イギリスへ宣戦布告し太平洋戦争が開始される。開戦と同時に日本軍第15軍(軍司令官:飯田祥二郎中将、第33師団および第55師団基幹)はタイへ進駐した。南機関も第15軍指揮下に移り、全員がバンコクに集結、南方企業調査会の仮面を脱ぎ捨てタイ在住のビルマ人の募兵を開始した。 12月28日、今日のミャンマー軍事政権の源流とも言うべき「ビルマ独立義勇軍」(Burma Independence Army, BIA)が宣誓式を行い、誕生を宣言した。鈴木大佐がBIA司令官となり、ビルマ名「ボーモージョー」大将を名乗った。BIAには「30人の同志」たちのほか、将校、下士官、軍属など74名の日本人も加わり、日本軍での階級とは別にBIA独自の階級を与えられた。発足時のBIAの兵力は140名、幹部は次の通りであった。 司令官 - ボーモージョー大将(鈴木大佐) 参謀長 - 村上少将(野田大尉) 高級参謀 - 面田少将(オンサン) 参謀 - 糸田中佐(ラミヤン) 参謀 - 平田中佐(オンタン) ダヴォイ兵団長 - 川島中将(川島大尉) 水上支隊長 - 平山大佐(平山中尉)
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