ビルマ独立と占領政策の綻び
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「ビルマの戦い」の記事における「ビルマ独立と占領政策の綻び」の解説
日本は戦勝後のビルマへの独立付与を予定していたが、戦勝の見込みは当面立たなかった。一方でビルマ住民の全面的な戦争協力を必要としていた。そこで日本政府は早期のビルマ独立の方針を具体化し、1943年3月10日『緬甸独立指導要綱』を決定した。8月1日、軍政は廃止され、ビルマは独立を宣言し独立記念式典が行われた。国家元首となったバー・モウによって任命された主な大臣は次の通りだった。 首相:バー・モウ 副首相:タキン・ミヤ(英語版) 財務相:ティン・モン 外相:タキン・ヌー 国防相:タキン・オンサン ビルマ防衛軍は「ビルマ国民軍」(BNA)と改名した。オンサンが国防大臣に就任したため、ビルマ国民軍の司令官にはネ・ウィンが任命された。独立と同時に「日本ビルマ同盟条約」が締結され、ビルマは連合国へ宣戦布告した。南シャン州(東部のケントゥン州とモンパン(英語版)州)がタイへ割譲され、カチン州は防衛上の理由から日本軍の軍政が続けられた。北シャン州(ラシオ(現在のラーショーなどを含む))については、気候風土や民族の違いから、ビルマから分離して日本の永久領土に編入し、日本人の集団移民を送り込もうという議論があった。だがビルマ側からの希望も強く、9月に日本政府は北シャン州のビルマ編入を決定した。 日本軍のビルマ占領は副次的効果を生んだ。ビルマ南部では戦前、インド人地主が農地の半分を所有し、ビルマ人の小作農に貸し付けていた。だがイギリス軍とともに、ビルマ人の敵対行動を恐れた地主たちもインドへ逃げた。バー・モウは放棄された土地をビルマの小作農へ引き渡した。コメの市場としては日本軍がおり、農民の負債は解消された。 だが日本軍の占領政策には綻びも出てきていた。日本軍が征服者意識をもってビルマ国民に接し、彼らを下に見たことは否めない事実だった。また1943年以降、ビルマ全土に対する連合軍の爆撃が激化し、ビルマ国民も被害を受けた。爆撃は生産活動を阻み、交通通信を途絶させた。流通の停滞とともに農民は自家消費分の農作物しか生産しなくなり、次第に食糧不足が顕著になっていった。 ビルマの僧侶は、日本軍が自分たちを宣撫工作に利用しようとすることに憤った。日本式の仏教とビルマの上座部仏教とは大きく異なっていた。妻帯したり従軍したりする日本の僧侶など、ビルマの僧侶からすれば想像を絶した。ビルマ仏教の教えからみれば天皇崇拝や戦死者の慰霊祭は邪教であった。コレラや天然痘の予防接種運動に動員されるのも嫌った。注射針を通じて女の体に触れさせられるからである。日本人は仏教徒同士の連帯を期待したが、期待は空回りに終わった。 日本軍とバー・モウ政権の関係も決して良好とは言えず、4月25日に南方軍ビルマ方面軍参謀副長・磯村武亮の示唆を受けた参謀部情報班所属の浅井得一によるバー・モウ暗殺未遂事件が発生した。
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