ビルマ独立とモン族の分離運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 14:27 UTC 版)
「モン州」の記事における「ビルマ独立とモン族の分離運動」の解説
1947年、モン族は、まだ出来ていなかったビルマ連邦からの民族自決を追求した。しかし、ビルマ国首相ウー・ヌはこれを拒否し、モン族の独立した国家主権は認められないと述べた。ビルマ軍はモン族国家主義者の主張する領域に進出し、ビルマ内戦に繋がった武力支配を課した。モン族は、モン人民戦線を結成し、この組織は1962年には新モン州党(NMSP)に取って代わられた。1949年以来、モン州の東部丘陵はNMSPとその民兵組織、モン国家解放戦線 (MNLF)の支配下となってきた。MNLFは、中央政府に対する闘争だけでなく、タイに逃げ込める有利な国境領域を支配しているカレン族とも戦闘した。 1974年、モン族分離派の要求を部分的に満たして懐柔する目的で、テナセリム(タニンダーリ管区)の北部、バゴー管区のペグー(バゴー県)と エーヤワディー川を足し合わせたモン族の理論的支配地モンランド(Monland)(これが後にタニンダーリ管区の北部とバゴー管区のタウングー県(英語版)の領域を足し合わせた現在のモン州となった)が作られたが、抵抗は1995年のNMSPと政府側の国家法秩序回復評議会(SLORC)の停戦合意まで続いた。1996年、モン統一連盟が結成された。SLORCは停戦協定を無視して戦闘を続行した。モン州における人権の状況は改善が見られなかった。国際機関は、モン州における大規模な人権侵犯で、すなわち強制労働、強制連行、監禁、強制移住、財産没収、強姦などの罪状で、繰り返しミャンマー政府を非難している。
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