「30人の同志」
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鈴木大佐は南機関の本部をバンコクに置き活動を開始した。南機関の任務は、世界最強のイギリス情報機関を相手として、日本の関与をいささかも漏らすことなく謀略を成功させるという極めて困難なものであった。南機関は次のような行動計画を立てた。 ビルマ独立運動家の青年30名を密かに国外へ脱出させ、海南島または台湾において軍事訓練を施す。 訓練終了後、彼らに武器、資金を与えてビルマへ再潜入させ、武装蜂起の準備をさせる。武装蜂起の時期は1941年6月頃とする。 1941年2月14日、杉井とオンサンの両名に対し、ビルマ青年の手引きを命ずる作戦命令第一号が発出された。両名は船員に変装して、ビルマ米輸送の日本貨物船でラングーンへ向かい、第一陣のビルマ青年4名の脱出を成功させた。以後6月までの間に、海路及び陸路を通じて脱出したビルマ青年は予定の30名に達した。この30名が、後にビルマ独立の伝説に語られることになる「30人の同志」である。 4月初旬、海南島三亜の海軍基地の一角に特別訓練所が開設され、ビルマ青年が順次送り込まれて過酷な軍事訓練が開始された。ビルマ青年たちのリーダーはオンサンが務めた。訓練用の武器には中国戦線で捕獲した外国製の武器を準備するなどして、日本の関与が発覚しないよう細心の注意が払われた。グループに比較的遅れて加わった中にタキン・シュモンすなわちネ・ウィンがいた。ネ・ウィンは理解力に優れ、ひ弱そうに見える体格の内に凄まじい闘志を秘めていた。ネ・ウィンはたちまち頭角を現し、オンサンの右腕を担うことになる。
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