日本の関与
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当時日本と中国とは日中戦争の最中にあった。中国の蒋介石政権は重慶へと逃れながらも、英米等からの軍事援助を受けて頑強に抗戦を続けていた。軍事物資の輸送ルート(援蒋ルート)としては、1.フランス領インドシナ、2.ビルマ、3.ソ連から中国内陸部、4.中国沿岸を経由する各ルートがあった。ビルマルートはラングーン(現在のヤンゴン)の港から、マンダレー、ラシオを経由し、山岳地帯を越えて昆明に達する自動車道路で、1940年にはビルマルートの輸送量が最も多くなっていた。 日本軍は、外交交渉や橋梁爆撃などによるビルマルートの遮断に務めたが、その達成には苦慮していた。1940年3月大本営陸軍部は、参謀本部付元船舶課長の鈴木敬司大佐に対し、ビルマルート遮断の方策について研究するよう内示を与えた。鈴木大佐はビルマについて調べていくうちにタキン党を中核とする独立運動に着目した。運動が武装蜂起に発展するような事態となれば、ビルマルート遮断もおのずから達成できる。こうして、外国勢力の援助を欲していたビルマ民族主義者と日本との提携が成立へと動き出す。
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日本の関与
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「国際連合平和維持活動」の記事における「日本の関与」の解説
日本は1992年6月8日に成立した国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律に基づき、1992年(平成4年)の第2次アンゴラ監視団 (UNAVEM II) に選挙監視団として、3名を派遣したのが始まりである。以後11のPKO等に要員を派遣している。 国際平和協力法で、1992年(平成4年)に定められた『PKO参加5原則』では、紛争当事者の間で停戦合意や、紛争当事者が日本の参加に同意していること、PKOが特定の紛争当事者に偏ることなく、中立の立場を厳守することなどを、PKO参加の要件としているが、上述のように、内戦状態にある南スーダンでは、首都ジュバが戦闘状態の状況下におかれ、その事実を防衛省が国会に隠匿するなど、日本国憲法に規定する文民統制の土台が揺らぐ状況に至った。
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日本の関与
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「ソウル交通公社1号線」の記事における「日本の関与」の解説
日本の技術協力と円借款によって建設された。 朝鮮戦争の英雄であり、交通部長官に就任した白善燁が、日本の運輸大臣としてよど号ハイジャック事件対応への謝意を示して「なにかお手伝いできることがあれば申し付けてください」と申し入れてきた橋本登美三郎に対して援助を打診したことから、日韓合同のプロジェクトとなった。 1974年8月15日の光復節を期して開通記念式典が行われ、朴正煕大統領も出席して華々しく祝われるはずであったが、当日に文世光事件が発生してしまったため実現しなかった。 金炯旭によれば、地下鉄車両の導入に関わった三菱商事・丸紅・三井物産・日商岩井(現・双日)の日本商社連合から岸信介ほか日韓の実力者にリベートが支払われていたとされる。
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