クレイギー大使着任と日英対立の背景とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > クレイギー大使着任と日英対立の背景の意味・解説 

クレイギー大使着任と日英対立の背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 01:31 UTC 版)

ロバート・クレイギー」の記事における「クレイギー大使着任と日英対立の背景」の解説

1917年のロシア革命以降日本の・・・就中陸軍・・・は支那における、また東アジア全般における赤露の共産主義浸透戦略に対して懸念抱いていた。そして、1930年代入り満州事変以後孤立に傾いた日本コミンテルン全世界的膨張みなしたものに対抗するためドイツ接近し、また日本外交政治的側面それまで以上に国防意識堅信化させ、徐々に戦時体制化を進行させていった。(4) 日英対立の背景は以上のような文脈の中で、支那事変日中戦争勃発後、日本の対共産主義戦略主眼とした大陸政策英国華北権益衝突により引き起こされたと概観できる。 【日英対立までの概要1935年以降、彼らの国防意識満州国建国時からの方針に従って内蒙工作華北分離工作によって外蒙・ソ連方面からの赤化勢力浸透防止をはかり、華北からの国民党勢力影響力排除目指させた。(5)(6) 軍は、支那現状遺憾ながら開戦に際しては、支那をしてソ連友邦たらしむべき公算極めて大なるものありと判断しあり・・・<そのような現状下で>西部内蒙古即ちチャハル綏遠以西地帯帝国大陸政策上重要なる価値有す。即ち若し地域を我日満側の勢力下に包容せんか、積極的に進んで同一民族たる外蒙古懐柔根拠地たらしむべく、更に西すれば新疆方面よりするソ連勢力魔手封ずると共に支那本部をして陸上よりするソ連との連絡遮断して支那大陸対す第三インター」の企図根底より挫折せしめ得べし。(板垣征四郎「軍の意見書」)(7) 日本南京政府敵対しているわけではないが、同政府赤化防止に本気で取り組んでいるのか、この点に関してはなはだ疑わしく思っている。<イギリス側>は華北での自治運動不平をもらし、日本の関与遺憾であると主張するけども、そもそも華北自治運動勢いづけたのは、南京政府金融政策である。日本満州国華北の特殊関係、排日運動取り締まり、および赤化勢力排除に関する南京政府態度が今のように不満足なのである間は、日本政府は無関心では居られない。(日本陸軍軍務局長磯谷廉介少将がリース・ロス使節団に対して提出した声明)(8) 1936年日本陸軍は常に国民党内部に「コミンテルンの影」が存在すると、疑念抱いていた。 そして、国民党共産党和解しないかという懸念加えて東アジア軍備増強しているソ連が国共両党と共同して抗日戦線に加わるのではないか、という恐怖存在していた。(9)その恐怖対す予防措置として、日本側に1936年9月以降ドイツとの交渉通じ11月日独防共協定締結させた。 しかし、その懸念中国の政治情勢綏遠事件(1936年11月14日)により日本側に不利に傾きつつあると同時に・・・ソ連操縦していると考えられていた・・・中国共産党抗日統一戦線必要性強調し国民党との和解達す為には、党のいくつかの原則さえ犠牲にする気がある事を示したとき、日本側の悪夢現実味帯び始めていたのである。(10) また、そのような状況下で抗日共同戦線形勢主張する国民党軍内部一派西安事件(1936年12月12日)を引き起こすのであり、同事件は中国の国共両党がその意見の相違捨てて共同戦線結成する事を望んでいた、ソ連注意を引いた。(11) 同事件が如何に収束し拘束されていた蔣介石釈放される至ったのかは諸説あり、現在でもあまりよくわかっていない事柄だが、当然ながら当時日本政府及び陸軍にもその結果ははっきりとせず、種々さまざまな憶測余地大きく残ったのである1937年以降日本側にもたらされ報告は、西安事件後に抗日共同戦線形成されつつある兆候蔣介石釈放背後ソ連一役演じていたという証拠ソ連の新統一中国あらゆる援助与え計画があるという情報であった8月21日南京政府ソ連中ソ不可侵条約締結したそのような状況背景日本情報関係者は、コミンテルン工作員中国あらゆる階層浸透して全国各地社会組織破壊ている証拠つかんでいると報告した。(12) そして、そのような情勢のなか1937年7月7日盧溝橋事件により支那事変日中戦争)が勃発し8月13日イギリス権益集中している上海戦火及んだとき、イギリス上述たような性質を持つ中国政府支持対日批判態度明白になり、さらに8月26日南京駐在英国大使ヒュー・ナッチブル=ヒューゲッセン(英語版)が銃撃受けて重症負い同行大使館職員日本海軍機の機銃掃射よるものであると主張したが、日本海軍自軍による機銃掃射否定したとき、イギリス対日態度硬化し、さらに前後して行われた日本海軍による援蔣ルート遮断目的として行われた中国沿岸交通遮断作戦平時封鎖作戦 1937年8月25日)は日英関係悪化させる要因となり、日英対立激化したそのような厳し情勢下でロバート・クレイギーネヴィル・チェンバレン英首相意向を受け1937年9月3日駐日大使として着任した。(13) 南京政府排日抗日を以て国論昂揚政権強化具に供し自国国力過信帝国実力軽視風潮相俟ち、更に赤化勢力苟合(こうごう)して反日侮日いよいよ甚だしく以て帝国敵対せんとする気運醸成せり。(帝国政府第二次声明 八月十五日)(14) 「コミンテルン」が日本当面の敵として準備進めていることは一昨年七月の「コミンテルン大会明らかに宣言して居る通りであって、「コミンテルン」は之により東洋平和を攪乱せんと企図しているのである故に支那側が「コミンテルン」の魔手踊らされることは支那自身為にも又東洋平和の為にも最も好ましからざる処であり、帝国終始一貫之に対し支那側の反省促して来たのである然るに支那側は遂に悪夢より醒む能わず容共抗日国是為し殊に西安事件以来は完全に赤魔の薬籠中のものとなり。(中ソ不可侵条約締結に際しての『我外務省当局見解八月二十九日)(15)

※この「クレイギー大使着任と日英対立の背景」の解説は、「ロバート・クレイギー」の解説の一部です。
「クレイギー大使着任と日英対立の背景」を含む「ロバート・クレイギー」の記事については、「ロバート・クレイギー」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「クレイギー大使着任と日英対立の背景」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「クレイギー大使着任と日英対立の背景」の関連用語

クレイギー大使着任と日英対立の背景のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



クレイギー大使着任と日英対立の背景のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのロバート・クレイギー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS