クレイギー大使着任と日英対立の背景
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「ロバート・クレイギー」の記事における「クレイギー大使着任と日英対立の背景」の解説
1917年のロシア革命以降、日本の・・・就中陸軍・・・は支那における、また東アジア全般における赤露の共産主義浸透戦略に対して懸念を抱いていた。そして、1930年代に入り、満州事変以後、孤立に傾いた日本がコミンテルンの全世界的膨張とみなしたものに対抗するためドイツに接近し、また日本外交の政治的側面はそれまで以上に国防意識を堅信化させ、徐々に戦時体制化を進行させていった。(4) 日英の対立の背景は以上のような文脈の中で、支那事変(日中戦争)勃発後、日本の対共産主義戦略を主眼とした大陸政策と英国の華北権益の衝突により引き起こされたと概観できる。 【日英対立までの概要】 1935年夏以降、彼らの国防意識は満州国建国時からの方針に従って、内蒙工作、華北分離工作によって外蒙・ソ連方面からの赤化勢力の浸透防止をはかり、華北からの国民党勢力の影響力排除を目指させた。(5)(6) 軍は、支那の現状は遺憾ながら日蘇開戦に際しては、支那をしてソ連の友邦たらしむべき公算極めて大なるものありと判断しあり・・・<そのような現状下で>西部内蒙古即ちチャハル、綏遠及以西の地帯は帝国の大陸政策上重要なる価値を有す。即ち若し該地域を我日満側の勢力下に包容せんか、積極的には進んで同一民族たる外蒙古懐柔の根拠地たらしむべく、更に西すれば新疆方面よりするソ連勢力の魔手を封ずると共に、支那本部をして陸上よりするソ連との連絡を遮断して、支那大陸に対する第三「インター」の企図を根底より挫折せしめ得べし。(板垣征四郎「軍の意見書」)(7) 日本は南京政府に敵対しているわけではないが、同政府が赤化防止に本気で取り組んでいるのか、この点に関してははなはだ疑わしく思っている。<イギリス側>は華北での自治運動に不平をもらし、日本の関与は遺憾であると主張するけども、そもそも華北自治運動を勢いづけたのは、南京政府の金融政策である。日本と満州国と華北の特殊関係、排日運動の取り締まり、および赤化勢力の排除に関する南京政府の態度が今のように不満足なものである間は、日本政府は無関心では居られない。(日本陸軍省軍務局長磯谷廉介少将がリース・ロス使節団に対して提出した声明)(8) 1936年、日本の陸軍は常に国民党の内部に「コミンテルンの影」が存在すると、疑念を抱いていた。 そして、国民党と共産党が和解しないかという懸念に加えて、東アジアの軍備を増強しているソ連が国共両党と共同して抗日戦線に加わるのではないか、という恐怖が存在していた。(9)その恐怖に対する予防措置として、日本側に1936年9月以降ドイツとの交渉を通じ、11月に日独防共協定を締結させた。 しかし、その懸念は中国の政治情勢が綏遠事件(1936年11月14日)により日本側に不利に傾きつつあると同時に・・・ソ連が操縦していると考えられていた・・・中国共産党が抗日統一戦線の必要性を強調し、国民党との和解を達する為には、党のいくつかの原則さえ犠牲にする気がある事を示したとき、日本側の悪夢は現実味を帯び始めていたのである。(10) また、そのような状況下で抗日共同戦線の形勢を主張する国民党軍内部の一派が西安事件(1936年12月12日)を引き起こすのであり、同事件は中国の国共両党がその意見の相違を捨てて共同戦線を結成する事を望んでいた、ソ連の注意を引いた。(11) 同事件が如何に収束し、拘束されていた蔣介石が釈放されるに至ったのかは諸説あり、現在でもあまりよくわかっていない事柄だが、当然ながら当時の日本政府及び陸軍にもその結果ははっきりとせず、種々さまざまな憶測の余地が大きく残ったのである。 1937年以降、日本側にもたらされた報告は、西安事件後に抗日共同戦線が形成されつつある兆候、蔣介石釈放の背後でソ連が一役演じていたという証拠、ソ連の新統一中国にあらゆる援助を与える計画があるという情報であった。 8月21日、南京政府はソ連と中ソ不可侵条約を締結した。そのような状況を背景に日本の情報関係者は、コミンテルンの工作員が中国のあらゆる階層に浸透して、全国各地の社会組織を破壊ている証拠をつかんでいると報告した。(12) そして、そのような情勢のなか1937年7月7日に盧溝橋事件により支那事変(日中戦争)が勃発し、8月13日、イギリスの権益が集中している上海に戦火が及んだとき、イギリスは上述したような性質を持つ中国政府の支持、対日批判の態度が明白になり、さらに8月26日、南京駐在英国大使ヒュー・ナッチブル=ヒューゲッセン(英語版)が銃撃を受けて重症を負い、同行の大使館職員が日本海軍機の機銃掃射によるものであると主張したが、日本海軍が自軍による機銃掃射を否定したとき、イギリスの対日態度は硬化し、さらに前後して行われた日本海軍による援蔣ルート遮断を目的として行われた、中国沿岸交通遮断作戦(平時封鎖作戦 1937年8月25日)は日英関係を悪化させる一要因となり、日英の対立が激化した。 そのような厳しい情勢下でロバート・クレイギーはネヴィル・チェンバレン英首相の意向を受け1937年9月3日に駐日大使として着任した。(13) 南京政府は排日抗日を以て国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と帝国の実力軽視の風潮と相俟ち、更に赤化勢力と苟合(こうごう)して反日侮日いよいよ甚だしく、以て帝国に敵対せんとするの気運を醸成せり。(帝国政府第二次声明 八月十五日)(14) 「コミンテルン」が日本を当面の敵として準備を進めていることは一昨年七月の「コミンテルン」大会に明らかに宣言して居る通りであって、「コミンテルン」は之により東洋平和を攪乱せんと企図しているのであるが故に、支那側が「コミンテルン」の魔手に踊らされることは支那自身の為にも又東洋平和の為にも最も好ましからざる処であり、帝国は終始一貫之に対し支那側の反省を促して来たのである。然るに支那側は遂に悪夢より醒むる能わず、容共抗日を国是と為し殊に西安事件以来は完全に赤魔の薬籠中のものとなり。(中ソ不可侵条約締結に際しての『我外務省当局の見解』八月二十九日)(15)
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