政治的側面
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エリザベスは(しばしば外交上の策略にしか過ぎない)結婚問題を公にし続けた。ダドリーの求婚は別として、エリザベスは結婚問題を外交政策として扱った。彼女はスペイン王フェリペ2世の求婚は1559年に拒否したものの、数年に亘り彼の従弟のオーストリア大公カール2世との婚姻を交渉している。 議会は繰り返し結婚を請願したが、彼女は常に言葉を濁して答えていた。1563年に彼女は帝国の使節にこう語っている。「もしも私が私本来の意向に従うならば、『結婚した女王よりも、独身の乞食女』ということです」。同じ年にエリザベスが天然痘に罹ると後継者問題が激化した。議会は彼女の死による内戦を防ぐために女王に結婚か後継者の指名を迫った。その4月に彼女は議会を閉会させ、1566年に課税への支持を必要とするまで再開させなかった。庶民院は彼女が後継者を示すことに同意するまで特別補助金を差し控えると脅した。1566年議会でロバート・ベル(英語版)がエリザベスの制止にもかかわらず、大胆にもこの問題を追及すると、彼は彼女の怒りの標的になり「ベル氏とその共犯者は貴族院で意見を開陳して、彼らを納得させなさい」と言われている。 1566年、彼女はスペイン大使にもしも結婚せずに後継者問題を解決できるならば、そうするだろうと打ち明けている。1570年までに政府の高官たちはエリザベスは結婚せず、後継者を指名もしないであろうことを受け入れた。ウィリアム・セシルは既に後継者問題の解決法を模索していた。この立場のために、彼女の結婚の失敗により、彼女はしばしば無責任だと非難された。エリザベスの沈黙は彼女自身の政治的な安全を強化した。彼女はもしも後継者を指名すれば、彼女の王座がクーデターの危機にさらされると知っていた。 1568年にハプスブルクとの関係が悪化すると、代わりにエリザベスはフランスのヴァロワ家の2人の王子との結婚を考えた。最初はアンジュー公アンリ(後のフランス国王アンリ3世)であり、その後(1572年から1581年)は彼の弟のアンジュー公フランソワである。この最後の提案は南ネーデルラントを支配していたスペインに対抗するためのフランスとの同盟構想と結びついていた。1579年にアンジュー公フランソワは求婚のため来英してエリザベスと面会しており、 エリザベスは彼が噂されていたよりは「それほど醜くはない」ので、彼に「蛙 (frog)」の愛称をつけた。エリザベスはこの求婚を真剣に考慮していたようで、アンジュー公が彼女へ贈った蛙形のイアリングを身につけている。カトリックのフランス王族との結婚には反対論が非常に強く、結局、この縁談は成立しなかった。1584年にアンジュー公フランソワは若くして死去し、この報を受けたエリザベスは悲しみ喪に服した。 エリザベスの未婚は処女性の崇拝を生じさせた。詩や肖像画において、彼女は普通の女性ではなく処女や女神として描写された。当初はエリザベスの処女性を美徳とするものであった。1559年に彼女は庶民院において「大理石の墓石にこの時代を治めた女王、処女として生き、死んだと刻まれれば満足です」と発言している。これ以降、とりわけ1578年以降、詩人や作家たちはこの題材を取り上げ、エリザベスを称揚するイコンに転じた。隠喩 (metaphor) や奇想 (conceit) の時代、神の加護の元に彼女は王国そして臣民と結婚した者として描かれた。1599年にエリザベスは「私のよき臣民、すべてが私の夫だ」と語っている。
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政治的側面
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スアンロク陥落後の数日間、南ベトナム国会では戦時政策に関する激論が交わされた。主戦派はアメリカは南ベトナムを見捨てないという前提の元、最後まで徹底抗戦を図るべきと主張した。一方の厭戦派は国家の滅亡を避ける為にもハノイ政府との交渉に乗り出すべきとして徹底抗戦に反対した。ただし、グエン・バン・チュー大統領に軍事的・政治的責任を問うことでは全議会が合意していた。 1975年4月21日午前8時、チュー大統領はスアンロク陥落の報告を受けた後、大統領職の辞任を宣言した。北ベトナム軍第4軍団を足止めするべく南ベトナム軍部隊を派遣したのは、チューがベトナム共和国の為に行なった最後の軍事的判断であり、彼はこの判断に政治的生命のすべてを賭けていた。しかし、彼が命令を下した時にはもはや手遅れであった。結局スアンロクは陥落し、議会における彼の政治的立場は一層と危うくなった。チューの辞職後、チャン・バン・フォンが新たな大統領に就任し、大きな犠牲と政治的失望を代償に停戦を求めてハノイ政府との交渉に臨むこととなる。
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政治的側面
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「ザ・ワールド・ファクトブック」の記事における「政治的側面」の解説
取り扱われていない地域 クルディスタン、カシミール、コソボのような一国の特定地方あるいは国家間の紛争地域は、取り扱われていないが、スプラトリー諸島のようなその地位が争われている他の地域については記事がある。 カシミール カシミールを描いた地図は、インド=パキスタン国境は管理ライン(実効支配地域の境界)で描かれているが、中国によって占領されているアクサイチンは縞模様で描かれている。 北キプロス 北キプロスは、独立した見出しを与えられたり、トルコの一部として挙げられたりしていない。なぜなら、アメリカ政府によって承認されていない領土の占領あるいは併呑は、アメリカ政府の地図に現れないからである。 台湾 / 中華民国 台湾は、Tの欄には掲げられていないが、一覧の最後に独立した見出しがある。「中華民国」という名称は、「政府」の欄に台湾の「正式名称」として掲げられていない。アメリカ政府は中華人民共和国を唯一の合法的な中国政府として承認 (recognize) し、「中国は一つのみで、台湾はその一部である」という、北京の一つの中国政策を確認 (acknowledge) しているからである。「中華民国」という名称は、2005年1月27日に短時間だけ書き入れられたが、それ以来「該当なし」に戻されている。(台湾問題参照) ビルマ / ミャンマー アメリカ合衆国は、軍事政権によるビルマのミャンマーへの改称を承認しておらず、それ故に、この国の見出しはビルマのままである。名称の変更は、「ビルマの正統な議会で承認されていない」ので、このように取り扱われている。結果として、アメリカ政府は、ミャンマーという呼称を採用していない。 マケドニア マケドニア共和国は、マケドニアで登録されている。国際連合、欧州連合、NATO、欧州放送連合、国際オリンピック委員会のような国際的組織は、The Former Yugoslav Republic of Macedonia(マケドニア旧ユーゴスラビア共和国)という言葉を使い、この短縮形を使用していないにもかかわらずこの様になっている。見出しに使われているこの名前の歴史は、少しばかり複雑である。1992年版『ザ・ワールド・ファクトブック』では、この国の見出しはマケドニアで掲げられた(この時、ソビエト連邦とユーゴスラビアから生じた20か国のための新しい見出しが加えられ、元の2か国は取り除かれた。)。1994年版で、見出しの名前がマケドニア旧ユーゴスラビア共和国に変えられ、次の10年間、これがこの国の名前として掲げられた。最終的には、2005年版『ザ・ワールド・ファクトブック』で、見出しの名前がマケドニアに戻された。これは、同国をマケドニア共和国と呼ぶという、2004年11月のアメリカ合衆国の決定に基づいている。 2019年2月12日にマケドニア共和国は「北マケドニア共和国」への改名を公布し、各国政府へ通知した。これを受けウェブ版『ザ・ワールド・ファクトブック』は2月14日に「北マケドニア(North Macedonia)」へ名称を変更した。 欧州連合 2004年12月16日、CIAは欧州連合の項目を加えた。CIAによれば、EU諸国がより国家的な性格を帯びてきたため、欧州連合を加えたとのことである。このことは序論の中の短い声明で説明されている。1951年の近隣6か国間の地域経済協定から、今日のヨーロッパ大陸をおおう27か国の超国家的組織への欧州連合 (EU) の発展は、歴史上前例のない現象である。領土合併のための王朝連合は、ヨーロッパでは長らく一般的であった。時には国家レベルの連合も行われ、ポーランド・リトアニア共和国やオーストリア・ハンガリー帝国がその例である。しかし、EUの様に多数の国民国家が全体に対して優越する存在に主権の一部を譲り渡すことは、まさに例のないことである。EUは、厳密な意味での連邦政府ではないが、ASEAN、NAFTAあるいはメルコスールのような自由貿易団体よりはるかに深化しており、一つの旗、国歌、建国日、通貨、また同様に他の国々との関係についての外交と安全保障の初歩的な共通政策といった独立国家と関連付けられる多くの特徴を持っている。将来、これら国家的性質の多くは、拡大されそうである。それ故、EUについての基礎情報を新しい独立した見出しとして『ザ・ワールド・ファクトブック』に加えることは、適切であると考えられている。しかしながら、EUの特殊な状態に鑑みて、この記事は普通の国家の見出しの後ろに置かれている。 アメリカ領太平洋諸島野生生物保護区とエパルス諸島 『ザ・ワールド・ファクトブック』2006年版では、ベーカー島、ハウランド島、ジャーヴィス島、キングマン・リーフ、ジョンストン島、パルミラ環礁そしてミッドウェー島の項目は、アメリカ領太平洋諸島野生生物保護区の項目に統合された。各個の島嶼の旧来の項目は、このファクトブックのウェブサイト上のリダイレクトとして残されている。2006年9月7日に、CIAは、バサス・ダ・インディア、ユローパ島、グロリオソ諸島、フアン・デ・ノヴァ島、トロメリン島についても、新たにエパルス諸島の項目に統合した。アメリカ領太平洋諸島野生生物保護区の項目と同様、5つの島の旧来の項目は、ウェブサイト上のリダイレクトとして残されている。 ユーゴスラビア / セルビア・モンテネグロ ユーゴスラビアは、『ザ・ワールド・ファクトブック』の中で混乱した履歴をたどっている。1992年以前、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 (SFRY) が、『ザ・ワールド・ファクトブック』に掲載されていた。1992年に、この見出しは削除され、旧共和国それぞれに対して見出しが追加された。この時、CIAはユーゴスラビア連邦共和国 (FRY) をセルビア・モンテネグロとして掲載した。この措置は、合衆国政府による1992年5月21日の決定に従ってなされたもので、決定の内容は、直前に解体したSFRYの継続国家としてFRY(またはその他の共和国)を承認しないというものであった。合衆国政府は、FRYを国家として承認しないことも決定した。 これらの見解は、『ザ・ワールド・ファクトブック』の注意書きで明らかにされている。 セルビア・モンテネグロは、共同独立国家の形成を主張しているが、しかし、この存在は、アメリカ合衆国によって公式に国家として承認されていない。アメリカ合衆国の見解は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 (SFRY) は解体し、いずれの後継共和国もSFRYの継承国家たり得ないというものである。 注意書きに加え、セルビア・モンテネグロは、右上の地図にも見られるようにデータ上は別々に扱われた。2000年10月、スロボダン・ミロシェヴィッチは、前月に実施された選挙での敗北を受けて大統領を辞任した。この出来事は、2001年版の『ザ・ワールド・ファクトブック』で、セルビア・モンテネグロがユーゴスラビアに改名されるという変化をもたらした。2002年3月14日に、FRYをセルビア・モンテネグロと呼ばれるゆるやかな国家連合に移行するという協定が調印され、2003年2月4日に発効した。この変更の翌月、『ザ・ワールド・ファクトブック』の中のユーゴスラビアという名前は変更された。 パレスチナ国(自治政府) パレスチナ国(パレスチナ自治政府)を紹介した項目は存在せず、代わりにパレスチナ人居住地としてガザ地区(Gaza Strip)とヨルダン川西岸地区(West Bank)が存在する。統計は完全に分離しているわけではなく、一部は両地区を合計したものになっている。また両地区の「政府」の項(通常であれば国名、政府首脳などが記載される)は地区名の由来が説明されているだけで、パレスチナ政府については言及されていない。なおアメリカはパレスチナ国を国家として承認していない。 西サハラ 西サハラはアフリカ大陸西部にある地域で、1976年まではスペイン領サハラであった。スペイン撤退後、モロッコと独立を望む現地住民らが結成したポリサリオ戦線(政体名サハラ・アラブ民主共和国)が領有権を主張している。現状は沿岸部をモロッコが、内陸部をポリサリオ戦線が支配しているが、国際的には旧スペイン領サハラ全域が係争地、帰属未定地として扱われている。かつてアメリカはどちらの主権を認めておらず、ファクトブックには「西サハラ(Western Sahara)」という個別の項目が存在した。だが2020年12月10日にアメリカはモロッコの西サハラにおける主権を承認したことにより、アメリカの立場では西サハラはモロッコ領となった。 ウェブ版は2020年12月17日に西サハラの項目が更新されたことが確認できるが、2021年1月のリニューアルの際に当該項目は削除された。一方でモロッコの項目はリニューアルの際に地図を「西サハラを含めた地図」に変更したことを皮切りに、徐々に西サハラとの統合が進んでいる。この削除は『ザ・ワールド・ファクトブック』の更新履歴には記載されていない。また2020年版の『ザ・ワールド・ファクトブック』のアーカイブ(ダウンロード版)では西サハラの項目が一覧から削除されている(ただし西サハラのファイルはアーカイブに含まれており、ファイルに直接アクセスすることで閲覧は可能である)。
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