結婚と流転の日々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 06:28 UTC 版)
天津のミッション・スクールで西洋風の教育を受けて育つ。婉容が17歳の時、溥儀の正妻(皇后)として迎えられた。同時期に側室(淑妃(中国語版))として文繡も溥儀の妻となる。当時、溥儀は紫禁城で西洋風の教育を受けており、スコットランド人家庭教師レジナルド・ジョンストンにより「ヘンリー」の英語名を持った。婉容にも中国生まれの米国人イザベル・イングラム(英語版、中国語版)が家庭教師となり、「エリザベス」の英語名を与えられた。 婉容は溥儀、文繡と多くの宦官や従者とともに紫禁城内で平穏な生活を送る。もっとも、溥儀との面会には互いの従者を通じて相手方の承諾が必要であるうえ、幼少期より大清皇帝の座にあり、「妻も妾も君主の奴隷」と見做していた彼は、婉容に正室としての愛情を持って接することも同衾することもほとんどなく、また広い城内で淑妃である文繡と顔を合わせることもほとんどなかった。 1924年、北京政変により清室優待条件が破棄されると夫婦は紫禁城を追放され、各国からの保護も拒否される。その中で日本のみが溥儀らへの支援を表明し、天津の日本租界の張園へ、1929年にはさらに静園へ移住する。中国国内における内戦(国共内戦)の影響は天津には大きく及ばず、また紫禁城を離れたことで因習に囚われることなく、日本の関与が深まり外出に監視がつくようになるまで、夫妻は現代風で自由な生活を送った。 しかし、文繡が張園を脱出し離婚したのを機に、溥儀との夫婦仲は悪化してゆく。溥儀は文繡に対する愛情はなかったが、これは婉容が彼女を追い出した結果の離婚により、皇帝としての体面を貶められたと考えたためである。さらに溥儀は、紫禁城居住時から何度か試み、婉容の望みでもあった海外脱出を諦め、復辟に執心するようになる。そんな夫への鬱屈した気分を晴らそうとした婉容は阿片に手を出し、やがて中毒症状を示すようになっていく。
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