結婚と森コンツェルン
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三木は1939年(昭和14年)3月、第74帝国議会で行われた映画国策化についての法制化審議の場で、政友会の岩瀬亮に次いで多くの質問を行った。岩瀬はかねてから映画に興味を示していて、1933年(昭和8年)には衆議院に映画国策樹立に関する建議案を提出するなどの活動を行っており、1939年(昭和14年)には、先述のアストリア号による齊藤駐米大使の遺骨帰還の模様から歓迎会の様子についてのニュース映画制作を委嘱された、南旺映画を立ち上げることになる。三木は岩瀬と親しく、映画政策についても岩瀬から情報を入手していたと考えられている。三木は映画国策化についての法制化審議の席で、映画国策化を推し進めるのならば、都会ばかりではなく農村でも映画を楽しめるようにすべきであるとし、更に映画の質的向上、そして費用の支弁を図るようにすべきとの質問を行った。 三木を岩瀬と引き合わせたのは結城豊太郎であったとされる。結城は森矗昶を総帥とする新興の森コンツェルンと関係があり、岩瀬は森矗昶の実弟であった。三木は結城、そして岩瀬との繋がりでしばしば森家に出入りしていたが、そのような中で1940年(昭和15年)6月初め頃に森矗昶の次女である睦子との結婚話が持ち上がり、6月26日には正式に結婚する。新進代議士三木と森コンツェルン総帥令嬢との結婚は政財界の注目を集め、結婚式は当時日本銀行総裁を務めていた結城が仲人となり、東京會舘で政財界の要人らを招いて盛大に行われた。なお800名参加したという結婚式参列者のほとんどが新婦側の客で、新郎である武夫側の客はわずか3名に過ぎず、三木の両親も出席しなかった。 森コンツェルンは新興財閥の一つであり、満州事変以後の軍需産業発展に伴い急成長を見せていた。新興財閥のため、資本金が必ずしも十分ではなく、人材も乏しいという欠点も見られたが、1937年(昭和12年)6月には電力、ガス、アルミニウムなどの金属工業、アンモニウム合成などの化学工業など重化学工業中心の直系27社を擁していた。 しかし三木の結婚前の1939年(昭和14年)には、森コンツェルンの主力企業である日本電工と昭和肥料が合併して昭和電工が設立され、森家の主導権からは離れることになった。その上、傘下企業の昭和鉱業も帝国鉱業開発に譲られ、東信電気も電力統制の結果なくなってしまい、更に総帥の森矗昶も1941年(昭和16年)3月1日に死去するなど、三木の結婚前後から森コンツェルンは下り坂を迎えていた。 1940年頃から森コンツェルンは大江山ニッケル、日本火工の二社を主力企業とするようになり、矗昶没後は大江山ニッケル、日本火工の後身企業に当たる日本冶金工業が中核となり、鉱山業と製錬を中心とした小財閥となっていった。三木は結婚した1940年6月、大江山ニッケルの取締役に就任し、1943年11月には日本冶金工業の取締役となっている。また三木は1942年(昭和17年)6月から1943年(昭和18年)11月まで、衆議院調査会の商工省部の委員となり、1943年11月から1944年6月まではこれまでの商工省から電力、重化学工業、鉱業が移管された軍需省の委員、更に翌1945年(昭和20年)には軍需省参与官となっている。三木が戦時中、衆議院の商工、軍需省の委員を務めていたことは、森コンツェルンとの関係が深いことによるものと推察され、更に森コンツェルンにとっても三木が重要な存在であったものと想定される。
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