結婚と愛人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 05:12 UTC 版)
「ジョージ4世 (イギリス王)」の記事における「結婚と愛人」の解説
ジョージの負債は増え続け、父のジョージ3世はジョージがキャロライン・オブ・ブランズウィックと結婚しなければ援助はしないとした。1795年、ジョージは不本意ながらも結婚に同意、2人は同年4月8日にセント・ジェームズ宮殿のチャペル・ロイヤルで結婚した。しかし、結婚は大失敗に終わり、2人は全くそりが合わなかった。1796年に唯一の子供シャーロットが生まれた後は正式に別居し、以降その状態が続いた。ジョージはその後(仲たがいした時期はあったものの)生涯を通してマリア・フィッツハーバート(英語版)を愛し続けた。 ジョージの愛人は数多くいた。女優のメアリー・ロビンソンがそのうちの1人で、彼女はジョージとの間の手紙を新聞に売ると脅して年金を勝ち得た。ほかには医者と離婚したグレース・エリオットやジャージー伯爵夫人フランセス・ヴィリアーズ(英語版)もジョージの愛人だった。晩年には貴族と結婚していたハートフォード侯爵夫人イザベラ・イングラム=シーモア=コンウェイ(英語版)とコニンガム夫人エリザベス・コニンガム(英語版)を愛人とした。 ジョージの庶子に関しては、いくつかの噂があった。フィッツハーバートとの間にはジェームズ・オード(James Ord、1786年生)という息子をもうけた、という噂があった。オードはアメリカに移り、イエズス会士となった。ジョージは国王に即位した後、ある友人に西インドで海軍士官をしている息子がいると打ち明けた。この息子の正体は第5代バルカレス伯爵の娘でソングライターのアン・バーナード(英語版)とジョージの間の息子とされるヘンリー・A・F・ハーヴィ大佐(1786年 - 1824年)と暫定的に同定された。それ以外の庶子には劇場の責任者の娘エリザ・クロールまたはフォックス(Eliza Crole/Fox)との間の息子ジョージ・シーモア・クロール少佐(George Seymour Crole)、酒場の主人の娘サラ・ブラウン(Sarah Brown)との間の息子ウィリアム・ハンプシャー(William Hampshire)、フランス人女性のボー(Beau)との間の息子チャールズ・"ボー"・キャンディ(Charles "Beau" Candy)がいた。ただし、系譜学協会(英語版)の研究総監アンソニー・キャンプ(Anthony Camp)はジョージ4世がオード、ハーヴィ、ハンプシャー、キャンディの父であるとする説を虚構であるとした。 ジョージの負債は1795年には63万ポンド(現66,544,000ポンドと同等)まで膨れ上がったが、(一時的ではあるものの)議会により解決された。議会はジョージの負債の償還を直接な給付金ではしたくなかったが、代わりに年金を6万5千ポンド(現6,866,000ポンドと同等)引き上げた。1803年にはさらに6万ポンド(現5,602,000ポンドと同等)まで増額され、ジョージの1795年時点の負債は1806年にようやく全て償還された(ただし、1795年以降に追加された負債はまだ残っていた)。 1804年にシャーロット王女の後見について紛争が起き、その結果シャーロットは国王ジョージ3世の保護下に置かれた。またジョージがキャロラインに庶子がいたと主張したため議会の査問委員会が調査する沙汰となった。調査の結果はキャロラインの疑いを晴らしたが、同時に彼女の行動が極めて軽率であることが明らかになった。
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