結婚と恋愛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 09:08 UTC 版)
1936年の秋、周璇は嚴華と正式に婚約している。1938年7月10日、周璇は嚴華と北平(現在の北京)の春園飯店で結婚式を挙げた。だが周璇の嚴華との結婚は僅か3年で破綻する。ゴシップによって双方が互いに不倫していると疑い、何度か喧嘩をした挙句、周璇は家出したことさえあったという。1941年、嚴華と離婚。その後、周璇は終生二度と結婚することはなかった。周璇の2度目に公になったロマンスは石揮とのものだったが、すぐに別れたという。3度目の広く知られたロマンスは織物商人の朱懐徳との同棲であった。朱懐徳が甘い言葉で周璇を騙し、彼女の心と財産の一部を掠め取ったとの噂が流布したこともあった。1950年、身重の彼女は上海に戻った後、新聞紙上で朱懐徳との同居生活に別れを告げたことを発表し、年末には長男となる周民を出産している。周璇が4度目に公表した恋人は映画の美術関係で働く唐棣であった。1952年5月、周璇は美術教師の唐棣との結婚の準備をしていたが、唐棣は静安区人民裁判所(中国語版)により結婚詐欺罪で懲役3年の実刑判決を受けることになった。同年、彼女は2番目の息子である周偉を出産している。 一方、周璇はまたかつて香港の名脇役俳優の曾楚霖(中国語版)と同棲し周民という子を育てている。省港(昔の広州市、香港を合わせた総称)の有名なアナウンサーの李我(中国語版)が著した回顧録『李我講故(四)―點滴留痕《李我の昔語(四)―エピソードの痕跡》』の中の一章「曾楚霖と周璇の物語」には次のことが書かれている。〝これは全て私(李我)が実際に経験したことである。1948年頃、上海永華電影公司の代表者の李祖永が香港に映画スタジオを設立するためにやって来て、一緒に来た人達の中に上海映画のスターが沢山いて、その一団の中に『国魂』を撮影した劉瓊の他に、周璇もいた。曾楚霖は当時映画月刊誌の編集者であったことから、周璇と知り合うようになり、遂には同居するようになった。…1950年のある日、私は旺角の満庭芳レストランに食事に行くと、上の階に上がるエレベーターで周璇に出くわした。彼女は曾楚霖との間に生まれた子供を抱いて離れようとしていたところで、私は彼女と二言三言挨拶を交わし、これからどうするのか訊ねた。彼女は上海に帰ろうと考えていると話し、果たして2か月後には彼女が此処を去ったとの消息を耳にした…〟。
※この「結婚と恋愛」の解説は、「周璇」の解説の一部です。
「結婚と恋愛」を含む「周璇」の記事については、「周璇」の概要を参照ください。
- 結婚と恋愛のページへのリンク