結婚と後半生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 13:50 UTC 版)
「リザ・デル・ジョコンド」の記事における「結婚と後半生」の解説
1495年3月5日に当時15歳だったリザは、織物と絹の商人としてそれなりに成功していたフランチェスコ・ディ・バルトロメオ・ディ・ザノービ・デル・ジョコンドの3番目の妻として嫁いだ。このときのリザの持参金はフローリン金貨170枚と、ゲラルディーニ一家の故郷近くに所有していたサン・シルヴェストロの農場だった。この持参金は決して高額なものではなく、当時のゲラルディーニ家があまり裕福でなかったことと、持参金目当ての結婚ではなくリザとバルトロメオが愛し合っていたことを示唆していると考えられる。ゲラルディーニ家が所有していた、ポッジョ村のカステッリーナとサン・ドナートの間にあった2箇所の農地は、後にミケランジェロの所有となっている。 ジョコンド夫妻はフィレンツェでごく普通の中流階級の暮らしを送った。ゲラルディーニ家と比べるとジョコンド家のほうが裕福だったために、結婚によってリザの社会的地位が向上した可能性はある。一方で旧家ゲラルディーニの娘と結婚したことで、フランチェスコもなんらかの恩恵を被ったとも考えられる。結婚当初のジョコンド夫妻は共同賃貸住宅に住んでいたが、1503年にフランチェスコが一家の故郷ヴィア・デッラ・ストゥーファの生家近くに家を購入して移り住んだ。レオナルド・ダ・ヴィンチがリザの肖像を描き始めたのもこの年だと考えられている。 リザとフランチェスコは、ピエロ、カミーラ、アンドレア、ジョコンド、マリエッタという名前の5人の子供をもうけた。5人のうちの4人は1496年から1507年の間に産まれている この5人のほかに1499年に死去した幼女もいた。。フランチェスコには2番目の妻カミーラ・ディ・マリオット・ルチェッラとの間に息子バルトロメオがおり、リザは生後一年ほどで生母と死別したこのバルトロメオも自身が産んだ子供たちとともに育てあげた。また、リザの父ゲラルディーニの2番目の妻カテリーナ・ディ・マリオット・ルチェッラとフランチェスコの最初の妻は姉妹であり、二人の出身家であるルチェッラ家は名族として知られていた。 リザとフランチェスコの娘カミーラとマリエッタは、二人ともカトリックの修道女となった。カミーラはベアトリーチェという修道名を与えられてカファッジョのサン・ドミニコ女子修道院に入会し、祖父アントンマリアの妹である修道女アルビエラと母リザの妹である修道女カミーラ、アレッサンドラの世話を任せられている。しかしながら、修道女ベアトリーチェとなったカミーラは18歳で夭折し、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会に埋葬された。リザには当時のフィレンツェで高く崇敬されていた聖オルソラ女子修道院と交流があり、1521年に次女マリエッタをこの女子修道院に入会させることができた。修道女ルドヴィカとなったマリエッタは後に修道院の役職に就き、尊敬される修道女となっている。 リザの夫フランチェスコは後にフィレンツェの行政官に就任した。1499年に12人で構成される評議会(12人善人会 Dodici Buonomini )の評議員となり、1512年にはフィレンツェの最高意思決定機関であるシニョリーアの一員に任命され、さらに1524年にはシニョリーア首座 (Priori )となっている。フランチェスコはフィレンツェの事実上の支配者だったメディチ家と、政治的あるいは経済的なつながりを持っていた。かつてはジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(1360年 - 1429年)が金融業で莫大な財産を築き、その息子コジモ(1389年 - 1464年)からコジモの孫のロレンツォ(1449年 - 1492年)まで、実質的にフィレンツェを支配していたメディチ家だったが、フランス王シャルル8世のイタリア侵攻に伴う政変でフィレンツェに共和制が成立し、1494年にフィレンツェから一族が追放されていた。しかしながら、1512年にスペインのハプスブルク家の後ろ盾を得たメディチ家がフィレンツェに帰還することを恐れたフィレンツェ共和政府は、メディチ家と関係があったフランチェスコを投獄し1,000フローリンの罰金を課した。最終的にフランチェスコはメディチ家が帰還し、ふたたびフィレンツェの支配権を確立した同年9月に釈放されている。 フランチェスコは1528年にペストのため死去した。その後リザも体調を崩し、聖オルソラ女子修道院で次女の修道女ルドヴィカにより看病されていたが、フランチェスコの死後から4年ほど経った1532年に63歳で死去したという記録がある。しかしながら、二人の生涯に関する学術的な記録のなかには、フランチェスコは1533年に80歳で死去、リザは少なくとも71歳か72歳となる1551年までは生存していたとするものも存在する。 フランチェスコの遺言に従って、1537年6月にリザに結婚時の持参金が返却されるとともに、衣装や宝飾品が遺産としてリザに贈られた。これらをリザに託すことによって、子女のルドヴィカとバルトロメオにリザの面倒をみさせようとしたのである。フランチェスコの遺言には「この遺言者(フランチェスコ自身をさす)は、愛する妻モナ・リザ(「私のリザ」の意)に心からの愛情と感謝を贈る。つねに気高く誠実に振舞ってくれたことに報いるためにも、今後彼女が必要とするものすべてを手にできることを望む……」と書かれていた。
※この「結婚と後半生」の解説は、「リザ・デル・ジョコンド」の解説の一部です。
「結婚と後半生」を含む「リザ・デル・ジョコンド」の記事については、「リザ・デル・ジョコンド」の概要を参照ください。
結婚と後半生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 23:49 UTC 版)
1872年、クライストチャーチにレオポルド・ジョージ・アルバート王子が入学し、学寮でのパーティや音楽会を通じてアリスと知り合い恋愛関係となった。リデル家は身分違いのこの恋愛を隠し続け、この交際は王子の卒業後まもなく終了したが、その後も王子との交流は保ち続けている。王子への思いを諦めたアリスは、その4年後の1880年、28歳のときに地主の息子レジナルド・ジャーヴィス・ハーグリーヴス (en) と結婚した。レジナルドは父の職であった治安判事を受け継ぎ、また、クリケットの選手としても活動している。 結婚後はハンプシャーにあるハーグリーヴズの屋敷カフネルズに住み、アリスが一家の社交の中心となった。アリスはレジナルドとの間に三人の息子アラン、レックス(レオポルド)、キャリルをもうけている。次男レオポルドは王子の名をもらったもので、王子に代父になってもらっている。一方レオポルド王子ものちに生まれた自分の娘にアリスと名付けた。なお三男キャリル (Caryl) はキャロルを思わせる名前であるが、アリス自身はこれをある小説の中の人物からとったと言い続けていたという。この小説が何かはわかっていない。三人の息子のうち、上の二人はいずれも第一次世界大戦で戦死している。 1926年、夫レジナルドが死去し、カフネルズの屋敷をキャリルが相続した。晩年、アリスの根強い階級意識はしばしば周囲との付き合いの妨げになり、1929年にキャリルが戦争未亡人と結婚した際には式に出席しなかった。この頃より妹ローダの家の近くにブリーチズという家を借り、冬はそこで過ごすようになった。 1932年、ルイス・キャロルの生誕100年を記念して、アリスにコロンビア大学から名誉文学博士号が贈られた。贈呈式はアリスの高齢を考慮し、キャロルの誕生日の1月ではなく5月に行われており、80歳になっていたアリスはキャリル、ローダに伴われて米国を訪れた。その2年後の1934年11月、アリスはキャリルとローダに見守られながらブリーチズの自宅で息を引き取った。
※この「結婚と後半生」の解説は、「アリス・リデル」の解説の一部です。
「結婚と後半生」を含む「アリス・リデル」の記事については、「アリス・リデル」の概要を参照ください。
- 結婚と後半生のページへのリンク