結婚と宗旨変え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)
「マルティン・ハイデッガー」の記事における「結婚と宗旨変え」の解説
1917年、ハイデッガーはプロテスタントのルター派で、プロイセン陸軍将校の娘であったエルフリーデ・ペトリとフライブルク大聖堂で結婚した。立会は神学者エンゲルベルト・クレープスであった。エルフリーデ・ペトリはフライブルク大学で国民経済学を勉強していた。これは当時では珍しいことであった。また、女子教育と女性の就業の発展を求めた女性解放運動家でドイツ民主党議員でもあるゲルトルート・ボイマー(1873-1954)の支持者であった。 1917年夏学期に空席になっていたフライブルク大学神学部教授にヨーゼフ・ガイガーが就任し、ファリアスはこのことがハイデッガーをカトリックから離反させることになったと論じている。 1918年1月17日、第一次世界大戦に際してドイツ帝国陸軍兵士としてハイデッガーは入営し、ホイベルク駐屯地に配置され、2月28日には第113補充大隊第4中隊に、7月8日にはベルリンのシャルロッテンブルクに駐屯するヴュルテンベルク編隊第414前線測侯(気象観測)部隊配属され、9月には西部戦線第一師団に配属され、マルヌ=シャンパーニュの戦闘に従軍したあと、11月5日に1等陸士に昇進し、休戦後の11月16日に第10航空補充部によって動員解除された。復員後、ルターを研究した。 1919年、ハイデッガーはカトリックからプロテスタントに宗旨変えをした。1919年1月9日のエンゲルベルト・クレープス宛書簡で「歴史的認識の理論を越えた認識論的洞察から私にはカトリックの体系が疑問視されるようになり、それは受け入れがたいものになってしまいました。しかしキリスト教と形而上学が受け入れがたくなったのではありません」として、今後は哲学者として自分の「現存在と活動そのものを神の前に正当化する」ことができると確信していると書いた。ただし、ハイデッガーは1936年帝国文部省の調査に「所属宗教:カトリック」と記していた。宗旨変えの理由は、ローマ教皇教皇ピウス十世の反近代主義の強権的路線への反感や、妻エルフリーデ・ペトリがルター派であったためともいわれる。ピウス十世の1907年7月3日教令検邪聖省発令のラメンタビリ (Lamentabili sane exitu)では科学的で批判的な聖書釈義と和解できないと非難命題が提出され、ローマ教会に対して反モダニズムの宣誓をするよう命じられた。1911年、ドレスデンで大学教授協会は、教皇の命令に従って宣誓した教授の除名を決議した。これに対してカール・ブライヒ(ブライク)やクレープスは教皇指令を擁護した。またピウス十世は1914年の自発教令(motu proprio)「ドクトーリス・アンジェリチ」でトマス・アクィナスを唯一の権威とした。
※この「結婚と宗旨変え」の解説は、「マルティン・ハイデッガー」の解説の一部です。
「結婚と宗旨変え」を含む「マルティン・ハイデッガー」の記事については、「マルティン・ハイデッガー」の概要を参照ください。
- 結婚と宗旨変えのページへのリンク