結婚と家庭
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「エリザベス・キャディ・スタントン」の記事における「結婚と家庭」の解説
成人した若いエリザベス・キャディは禁酒運動と奴隷制度廃止運動に関与して間もなく、ヘンリー・ブリュースター・スタントンと出会う。ヘンリーはエリザベス・キャディのいとこゲリット・スミスの知人で「秘密の6人」(Secret Six) の一員、ジョン・ブラウンによるハーパーズフェリー襲撃 (ウェストバージニア州) の支持者でもある。新聞記者として奴隷制度反対の雄弁家であり、結婚後は弁護士として働く。エリザベスの父ダニエル・キャディが態度を留保したにもかかわらず、若いふたりは1840年に結婚、式で妻となるエリザベス・キャディは牧師に結婚式の誓約から「従うことを約束する」という文言を削るように求めた。後に「平等な関係に入る相手なのだから、従属は固く拒否した」と記している。夫妻は1842年から1856年の間にゲリット・スミス・スタントン、セオドア・ウェルド・スタントン (英語) を含む6人の子どもに恵まれた。第7子の末っ子ロバートの誕生した1859年にエリザベス・キャディ・スタントンは44歳で、思いがけず授かった子であった。また子どもの年齢差をみるに、ある歴史家はスタントンが避妊したに違いないと述べている。 新婚旅行でヨーロッパを訪れた夫妻はアメリカに戻った直後、新居をジョンズタウンのキャディ家に構える。夫ヘンリーは義父のもとで法律を勉強し、3年後の1843年に法律事務所への就職を機に夫妻はマサチューセッツ州ボストン (チェルシー) に移る。妻エリザベスはボストンで奴隷制度廃止運動の集まりと会合にしばしば出かけては、知人との交流、政治的な関心や知的刺激を徹底的に楽しんだ。ここで文化人のサークルに出会いフレデリック・ダグラス、ウィリアム・ロイド・ギャリソン、あるいは文筆家のルイザ・メイ・オルコットやラルフ・ウォルド・エマーソンなどとのやりとりを楽しみ、影響を受けることになる。 結婚から夫との死別を経て生涯、旧姓にスタントン姓を添えて名乗り、署名はエリザベス・キャディ・スタントンあるいはE・キャディ・スタントンとしたが、ヘンリー・B・スタントン夫人と呼ばれることを断固、拒み続けた。女性は個人であると断言してこう述べている。「女性と見ればジョン・誰それ夫人、トム・なんとか夫人、黒人ならサンボだのジップ・クーンと呼びますが、白人がすべてを支配するという原則に基づいた蔑称です。」 スタントン夫妻の結婚に全く緊張と不一致がなかったわけではない。ヘンリー・スタントンは義父ダニエル・キャディ同様、女性参政権の概念に反対だった。あるいは仕事や出張、家計の都合から妻と夫は一緒にいるよりも離れて暮らすことが多かった。友人から見ると気質も野心もそっくりなふたりであったが、こと女性の権利を含む特定の問題に関しては見解が全く異なる点を心配し、奴隷制度廃止派の改革者サラ・グリムケなどは1842年にエリザベス宛ての手紙で助言している (1842年12月31日付、Sarah Grimke 発スタントン宛ての信書。 「ご主人のヘンリーには誠実でもっと献身的な妻が必要だし、貴女だって同じでしょう」。 それでもスタントン夫妻にとって自分たちの結婚は総体としてうまくいっていたようで、1887年に夫が先に死去するまで47年間、添いとげることとなる。現にスタントンは1847年、ニューイングランドの冬が夫ヘンリーの体調にさわるだろうと懸念して、ボストンの家から父に買ってもらったニューヨーク州北部の家へ引っ越す。新居はフィンガーレイクスの1つ、ケイユーガ湖 Cayuga Lake 北端の町セネカフォールズの郊外にあり、夫婦の末の子ども4人(息子と娘2人ずつ)の生まれ故郷である。スタントンは子どもを「自発的母性」と呼ばれるプログラムで授かったと主張した。夫の性的要求に従うのは妻の務めと考えられた時代に、女性こそ性的関係と出産を指揮するべきと固く信じていた。スタントンは在来療法のホメオパシーを取り入れ、親と対等な発言を許し野外でせっせと遊ばせ、どの子にも堅実で高度な教育を施す母親を目指し、息子も娘も幅広い興味を伸ばし、活動や学習を支えた。娘のマーガレットは「陽気で温かく寛大な母」と記憶している。 母性を享受し、子供を育てる主な責任を引き受けたスタントンは、セネカフォールズには知的な交際も刺激もないと不満を抱き、落ち込んでいく。女性運動から身を引いていたこの期間にもスーザン・B・アンソニーと連絡を取り続け、遠隔地にいても講演原稿の執筆を中心として運動に関与し続ける。さらにアンソニー宛ての手紙にはしばしば、女性に偏見のある社会で家庭生活と公の生活のバランスを取ることの難しさをこぼしたりもした。退屈と孤独に染まらないため、ますます地元コミュニティに深く関与すると、1848年には地域で同様の考えを抱く女性とネットワークができあがる。腰を据え、やがて迎える女性の権利運動の黎明期に向けた組織的な活動の備えが整いつつあった。
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結婚と家庭
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1974年、ミュージシャンで音楽プロデューサーであるクインシー・ジョーンズとの結婚後、リプトンは家庭に専念するために女優業を休止した。二人の間には2人の娘、ラシダ・ジョーンズとキダーダ・ジョーンズ(英語版、フランス語版)がおり、いずれも女優である。 リプトンは、異人種婚により一緒に旅行に行くと、時に問題が起こったことについて述べている。リプトンは1986年にジョーンズと別居後、こう語った。 「 “素晴らしい結婚生活だったけど、もう終わり。演技をすることは私が一番よく知っていること。私は本当にとっても子供が欲しくて、両立することができないって分かっていたの。” 」 1990年、二人は離婚した。
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