夫との死別
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「マーガレット・オブ・ヨーク」の記事における「夫との死別」の解説
1474年、夫シャルルはフランス王国に対し、ブルゴーニュ戦争を起こす。さらに1475年夏には、兄エドワード4世がフランスに侵攻し、7月6日にマーガレットもカレーで兄を出迎えた。しかし8月29日に、ピキニーで会談が行われ、イングランドとフランスはピキニー条約(英語版)を締結し、7年間の休戦とイングランド王のフランス王位継承権放棄が取り決められた。 1477年1月5日に夫シャルルが戦死する。フランス王ルイ11世は、ブルゴーニュ公領及びブルゴーニュ伯領(フランシュ・コンテ)に侵攻した。さらにヘント市に対し、同市からマーガレットを追放するよう強要したが、ヘント市民は強く反対した。 フランスからの圧力や工作を受けて、フランデレンの各都市は後継者であるマリー女公に対し叛乱を起こした。うちヘントは特に強硬で、マリーの忠臣であるウィレム・ユゴネ(オランダ語版)及びランバークール伯ギィ・ファン・ブリモー(オランダ語版)を処刑しただけでなく、マーガレットとマリーを引き離した。3月11日、各都市は、マリーに大特許状を認めさせた。マリーは極秘裏に、婚約者であるハプスブルク家のマクシミリアン(後神聖ローマ皇帝)に婚約の履行を求める手紙を送った。混乱の中で、マリーの夫選びが再考され、マーガレットの強い支持もあり、議会はマクシミリアンを選出した。マリーはマクシミリアンの代理人と代理結婚式を挙げ、ネーデルランドの市民もこれを歓迎したが、マーガレットはこれに安堵することなく、一日も早いマクシミリアンの出立を督促した。5月21日にマクシミリアンはウィーンを出立した。途上、マーガレットは家臣のオリヴィエ・ド・ラ・マルシェ(英語版)に10万グルテンを託し、マクシミリアンに届けた。 8月10日、マクシミリアンはヘントに到着した。テン・ワルレ宮殿(英語版)(プリンゼンホフ)で、マリーはマーガレットと共にマクシミリアンを出迎えた。マーガレットは円満な夫婦となった二人の結婚を殊の外喜んだ。マクシミリアンは、当初マリーとラテン語で交流していたが、たちまちに複数の言語を習得した。うち英語は、マーガレットが教えたことによる。 1478年7月22日に、マリーが嫡男フィリップ(美公)を産むと、フランス側は誕生したのは女子であると流布するが、マーガレットは裸のフィリップを人々に見せて、流言の終息を図った。1480年1月10日に生まれたマルグリット(仏:マルグリット、独:マルガレーテ)は、マーガレットに因んで命名された。フランスとの動乱及び国内の叛乱が一息ついた1482年、マリーが乗馬の事故により25歳で逝去した。
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