夫との関係
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マスコミ、外部に対しては夫のことを「落合」と呼んでいる。 博満はロッテ時代でまだ一軍半であった時期、当時、信子が経営するスナックバーの常連客であった。信子は博満に対して「才能のあるアンタが何で年俸360万円なの? 私よりも稼ぎが少ないじゃない!」と揶揄しながらも、「アンタはプロ野球選手として一体何を目指しているの?」と問い質すと、博満は「三冠王になりたい」と答える。すると信子は、「じゃあアンタ、歯を治しなさい」と、数百万円を提供して歯の治療・矯正をさせた。 1982年に博満が最初の三冠王を獲った時、本塁打数が32本だった。前年の本塁打王の門田博光、トニー・ソレイタの44本よりも10本以上少なく、また打率、打点ともに突出した数字ではなかったため、「落合の三冠王はラッキー」という評する向きも少なくなかった。信子は博満に、「門田さん、ソレイタ、ブーマー、本塁打をたくさん打っている人はみんな太っているじゃない。あなたも、もっと太りなさいよ」と言い、以来、落合家の食卓に数え切られないほどのメニューが並ぶようになり、博満の体重はあっという間に10㎏近く増え、打球の飛距離が格段に伸びたという。また、博満が試合でノーヒットの時は、必ずオカズにタコを出していた(野球用語でタコは凡打を意味するため、野球選手はゲンを担ぐためタコは食べないと言われている)。 1983年は、1981年から3年連続で首位打者となったが、翌1984年は首位打者、最多本塁打、最多打点のいずれもタイトルを逃す。それに信子は「悔しいのなら三冠王をもう一度獲れ。そしたら(三冠王を二回獲った)王さんに並ぶよ」とハッパをかけた。1985年は文句無しの好成績で3年ぶり2度目の三冠王となり、当時のマスコミ、世間は博満を絶賛した。しかし信子だけは周囲からの評価にも一切惑わされず、「まだ王さんに並んで満足しちゃダメ。世界の王を抜いてみなさいよ!」と、気合いを入れ直す。すると博満は、翌1986年も前人未到となる通算3度目の三冠王を獲得、世間から『悪妻』のレッテルを貼られ続けた信子夫人への批評が一変した。 1985年オフのロッテ退団騒動の時、番記者が信子本人のコメントが欲しいということで、自宅にて取材に答えた。その時の「落合は野球以外のことに煩わされると『引退します』と言いかねない」という談話が、どういう訳か「私が落合を引退させる」という記事になり、博満が大激怒し「明日引退する!!記者会見を開く!!」という騒動になったことがある。 博満の打席をテレビ中継で見る際、画面に定規をあて、打席での腕の構えや足の位置、スイングが波を打っていないかなど細かくチェックし、帰宅した博満に好調時とのズレを逐一報告していた。また、博満がスランプに陥った時に、信子自ら「ストライクはあの狭いホームベースの上を必ず通るんでしょ。じゃあそこを通ったボールだけを打てばいいんじゃないの?」とアドバイスをしたところ、次の日から博満はスランプを脱したという。 ロッテ時代に既婚でありながら時折、ソープランド通いをしていた博満に対して、信子は「もし私が浮気したらどうするつもり?君は遠征先とかで、ソープランドへ行ったりしているんでしょう?ねぇ、どうなのよ?」と訊いた。すると博満は、「ソープランドが浮気かよ!性処理ならいいじゃねえか!」と開き直った。信子はこの発言に「この男は、ひょっとすると私の想像をはるかに超えた大物かもしれない‥」と脱帽したという。そして博満が買ってきた男性週刊誌を「教材」に勉強し、夫婦生活についていかに研究不足かを思い知らされ、ソープを我が家でやってみようと思い立ち、耳学問ながらソープの技術をマスターした。その後信子は、博満に「あとで、ソープランドごっこしてあげるからお客さんになりな」と言って、準備の様子を見せたところ、それを機に博満のソープ通いは収まったという。 得津高宏は「結婚してからオチは夜遊びに行かなくなった。キャンプ中も練習以外はずっと部屋にいた。彼女のおかげで野球に身が入るようになったんでしょう。」と述べている。 博満のロッテオリオンズ在籍時から東京に現在の居を構えた都合、中日での現役時代(1987年〜1993年)と、2004年からの監督就任時には博満に単身赴任をしてもらっていたが、頻繁に名古屋へ訪れ(川崎球場→ナゴヤ球場→東京ドーム→ナゴヤドーム)、2005年からは福嗣の勧めもあり、名古屋に住み込んで夫を陰から支えていた。 博満の監督時代は息子の福嗣共々、ナゴヤドームに足を運び、一般のファン同様にレプリカユニフォーム(夫のもの)に身を包み、頭にはファングッズの「ドアラの耳」を付け、自軍ベンチの真上から観戦していたこともあった。 博満は著書「コーチング」の中で「私の妻は私の外敵から体を張って全力で阻止する。今でもそういう考え方なのだ。落合がいて、息子と私がいる。一番に来るのは自分ではなく落合博満なのだ。なかなかこういう人はいないだろう。」と著書で記している。
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夫との関係
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「キャロライン・オブ・アーンズバック」の記事における「夫との関係」の解説
1737年にヘルニアの手術の失敗のため54歳で死去するまで、ジョージ2世とは良好な夫婦関係を保った。しかし、好色といわれてきたハノーヴァー朝の例に漏れず、ジョージ2世は多くの愛人を持ったことで知られる。そのうちの有名な愛妾は、キャロラインの寝室付き女官を務め、後には衣服係女官(英語版)(王妃付き女官の最高位)となったサフォーク伯チャールズ・ハワード夫人ヘンリエッタ・ハワード(英語版)である。だがキャロラインはヘンリエッタやジョージ2世と良好な関係を保ち、ヘンリエッタに宮廷の諸事を任せ、ヘンリエッタの方も1734年にジョージ2世との関係が切れて辞職するまで、何事につけてキャロラインと相談し合っていた。 とはいえジョージ2世がアマーリエ・ゾフィー・フォン・ヴァルモーデンに夢中になった時は流石に怒り、1735年に息子の嫁選びにハノーファーへ向かったジョージ2世がアマーリエを愛人にして一向にイギリスへ戻らず、困り果てたウォルポールからアマーリエを新しい愛人に認めてジョージ2世の帰国を促すことを切り出されると激怒、ウォルポールにそれまでの夫に対する不満をぶちまけた。しかしウォルポールに宥められ落ち着きを取り戻すと、アマーリエを愛人にすることと王宮入りを認め、翌1736年にジョージ2世がイギリスへ戻り一件落着となった。アマーリエだけでなく他の愛人たちにも王宮の一室を与え、監督に努めたという。 有名な逸話として、死期を悟ったキャロラインは、自分を見舞うジョージ2世に対し、自分が死んだら再婚して欲しいと言ったという。それに対しジョージ2世は『愛人はつくるが、再婚はしない』と宣言し、キャロラインをあきれさせた。キャロラインはウェストミンスター寺院に埋葬された。ジョージ2世は23年後の1760年に亡くなるまで宣言を守り、愛人は作ったが、再婚しなかった。王の遺言に従い、王は王妃の棺と並びあう王の棺の横板と、王妃の棺の横板を外させた上で埋葬された。そうすれば、2人で1つの棺に入れるからだった。 当時のイギリス国民は王妃キャロラインの死を悼み、トランプをするときにはQ(クイーン)抜きでやったと言われている。ヘンデルも王妃の死を大変悲しみ、王室の依頼をうけて葬送のアンセム『シオンへ至る道は悲しみ』を作った。
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