夫との関係と薬剤師リンチ殺人事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 07:59 UTC 版)
「松本知子」の記事における「夫との関係と薬剤師リンチ殺人事件」の解説
1994年に発生した薬剤師リンチ殺人事件のポア(殺害)決定会議に参加していたとして、1995年に逮捕・起訴される。 裁判では、松本知子が夫の麻原に口を出せる存在であったかが争われた。松本知子と弁護人側は、麻原は愛人で教団幹部の石井久子と浮気し、松本知子を監禁したり、松本知子の両親のために作っていた部屋を石井の部屋にしてしまうなど、ひどい扱いを受けていて夫を止めることはできなかったとした。四女の証言によると麻原の愛人は教団内に100人おり、夜毎、セックスをするために、尊師の部屋によばれる女性は異なり、正妻である知子は、毎夜、尊師が愛人たちとセックスしている部屋の前で通過儀礼の間中うろうろしていた。 1999年2月18日の控訴審の控訴趣意書で「麻原が当時もっとも気にかけていたのは、被告人が激しい精神混乱に陥るという事実をもはや教団内の一部の秘密としてとどめることができず一般信者にも知られ、さらにはその根本原因たる麻原の放埓な女性問題が明るみに出てしまうことであった。(中略)しかし、教団の教祖たるもの、妻の精神状態さえ十分にコントロールできないことが暴露されれば、その権威は失墜する。(中略)本件当日、O(被害者)とYの教団施設侵入を知った麻原は、この機会に「ポア」の名の下にこれら両名を殺害し、その現場で意のままに振る舞う自らの姿を被告人の目のあたりに見せつけて、さらなる恐怖心を与えようとしたのであった」と主張した。 しかし検察側は、杉本繁郎、井上嘉浩の「麻原は恐妻家だった」との証言をもとに、松本が謀議に参加し、殺害を容認した旨を主張。1998年5月14日の第一審では懲役7年の判決を受け、1999年9月9日の控訴審・2001年6月26日の上告審では、遺族への謝罪と賠償を理由に懲役6年に減刑された。和歌山刑務所にて服役し、2002年10月15日に出所。 この事件に関しては、のちの1999年11月にジャーナリストの青沼陽一郎と11月1日から16日までの間に数度の書簡(約60枚)をかわし、雑誌上で公開された。その中で松本は、事件は井上、杉本らの嘘の証言に基づく判決であり、殺害謀議には参加しておらず冤罪であることを強く主張している。井上も杉本も取り調べ調書から法廷証言に至るまで供述証言に多くの変遷が見られるにも関わらず、上申書ならびに弁解録取書、取り調べ当初の警察官調書が取り調べられず、それどころか開示はおろか存在すらも知らされないままに反証が行われ、判決に至っている。争うべき証言の信用性が十分に証明できないままに判決が出されたと主張している。また、事件当初の松本は出産40日前の身重であったが、オウム内で精神病、精神異常と言われ事件の2カ月前から独房修行で隔離され、事件当日の数時間だけ引きだされ事件後はそのまま独房に戻されたとしている。
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