ドレームのフェミニズム
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「マリア・ドレーム」の記事における「ドレームのフェミニズム」の解説
ドレームはジャーナリズムおよび講演会において非嫡出子、棄児、児童虐待などの問題、非宗教的な託児所の設置や児童労働禁止を訴えた。さらに、1869年にジャーナリスト・女性解放運動家のレオン・リシェとともに『女性の権利(フランス語版)』紙を創刊し、女性の地位向上に取り組んだ。同紙は1871年に『女性の未来』に改名し、ヴィクトル・ユーゴーやルイ・ブランの支持を得、ユベルティーヌ・オークレールら多くのフェミニストが参加した。一方、リシェがドレームの支援を得て1870年に結成した女性の権利協会(フランス語版)は、1874年にニューヨークで結成された国際女性連盟と連携し、国際会議を開催することになった。第1回国際女性の権利会議(フランス語版)は『女性の未来』紙の主催により1878年にパリで開催された。この会議では女性の権利・地位に関する多くの問題が取り上げられたが、女性参政権の問題は議題に挙がっておらず、これがドレームらの穏健なフェミニストとオークレールらのより急進的なフェミニストの対立につながった。ドレームは参政権運動を行うにはまだ機が熟していない、市民権の獲得が緊急課題であり、かつ、あらゆる社会階級の女性にとって重要であると考えていた。当時の参政権運動家らと違って、共和派、急進主義者、自由思想家の立場から、政治改革と女性の地位の改善(社会改革)を同時に進める必要がある、すなわち、いまだ教権主義的な共和国を変えて行くことが先決問題であり、政治における男女平等(女性参政権獲得)以前に、法の下での男女平等を確保する必要があると考えていたのである。実際、ドレームには男性を説得できる知性とレトリックがあった。女性が「犠牲」になっているとは言わず、またはそのことだけを強調せず、問題は社会構造にあり、「このように不平等な状況を作り上げることで社会がどのような利益を引き出しているか」を問うことの重要性を訴えた。より具体的には、結婚と家庭に男女の不平等の原因があるとしながらも、結婚・家庭制度ではなく、結婚・家庭という伝統的な概念を問題視し、これを覆す必要があると主張したのである。こうした観点から、英国のジョセフィン・バトラー(英語版)とともに廃娼運動に取り組み、フランス女性商業従事者同盟を結成して商事裁判所における女性の投票権と任命のための運動を行うなど、女性のための社会改革を推進した。
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