国際女性の権利会議
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「ユベルティーヌ・オークレール」の記事における「国際女性の権利会議」の解説
1869年、ジャーナリスト・女性解放運動家のレオン・リシェとマリア・ドレームが『女性の権利』紙を創刊。1871年に『女性の未来』紙に改名された。同紙に掲載された支援者ヴィクトル・ユーゴーの書状がオークレールの方向を決定づけた。1804年のナポレオン民法典では、既婚女性は未成年者や禁治産者と同じような扱いであったが、ユーゴーは「法により未成年者と呼ばれる者は実際には奴隷である」と書いていたからである。オークレールは早速入会し、1876年に、「女性は二月革命 (1848年) を起こした労働者や農民と同じように、自らの権利を要求するべきである、支配者(男性)が自ら進んで「特権」を放棄するなどというナイーブな考えは捨てて、女性自身が闘わなければならない。「新たな時代」を切り開くためには、男性が女性に協力しなければならない」と訴える記事を複数の新聞に掲載した。 一方、リシェがドレームの支援を得て1870年に結成した女性の権利協会(フランス語版)は、1874年にニューヨークで結成された国際女性連盟と連携し、国際会議を開催することになった。第1回国際女性の権利会議(フランス語版)は『女性の未来』紙の主催により1878年にパリで開催された。5つの分科会により構成され、ドイツ(アルザス=ロレーヌ)、英国、米国、ベルギー、ブラジル、フランス、イタリア、ルーマニア、オランダ、ロシア、スイスから219人(うち男性113人)が参加した。女性の権利・地位に関する多くの問題が取り上げられたが、オークレールが最も重要であると考えていた参政権の問題は議題に挙がっていなかった。実際、当時の「女性の未来」の主張は、男女が平等に扱われることで女性が「より良い教育を受け、より良い仕事に就く」ことができるために、「妻および母としての義務をより良く果たすことができる」という保守的なものであり、リシェとドレームは市民権の拡大を優先し、参政権の問題には触れたくないと考えていた。そこでオークレールは「女性の参政権、もしくは国際女性会議で取り上げられない問題」と題するパンフレットを作成し、配布した。「女性は男性に情けを乞う乞食であり、自由な男性により構成される国民国家において、900万人もの成人女性が奴隷国家を形成している。共和国の理念に従うなら、女性は男性と同じように納税しているのだから、同じ権利があるはずである。男性にのみ選挙権を与える家族主義によっては、代表性(したがって民主主義)は保障されない。女性に選挙権、被選挙権、女性を解放するすべての権利を与えるべきである」という趣旨である。 パリ会議の14か月後にマルセイユで第2回国際女性の権利会議が開催され、ここではオークレールも分科会「社会主義労働者会議」で「男女の政治的・社会的平等」について発表する機会を得た。彼女は「男性の女性に対する差別は、中産階級の労働者階級に対する抑圧と同じである」とし、女性の「教育の機会、思想・良心の自由、表現の自由、行動の自由、経済的自立」の必要性を訴えた。この演説は大成功であった。オークレールは労働者階級が政治の担い手となる可能性を示したとして、ジュール・ゲードに例えられるほどであった。さらにこれを契機に「ベルヴィルの女性労働者」など女性の労働組合が結成され、レストラン「ブイヨン・デュヴァル」の女給のストライキをはじめとする女性労働者のストライキが行われるようになり、女性の権利会議の運営委員会でも女性が事務局、広報、会計など重要な役割を担うようになった。
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