『女性の権利』紙・女性の権利協会
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「レオン・リシェ」の記事における「『女性の権利』紙・女性の権利協会」の解説
1869年4月、リシェは女性の権利改善を目指してマリア・ドレームとともに週刊新聞『女性の権利』を創刊した。本紙は1871年に『女性の未来』に改名し、1879年に再び『女性の権利』として刊行された。『女性の権利』紙は、女子教育の改善、父権・夫権濫用に対する女性の保護・支援、売春防止のための女性の賃金増加、女性の土地・財産所有権、同一労働同一賃金、民法典の改正などの女性の要求を伝えることを目的とした。すでに1866年に女性解放運動家のアンドレ・レオ(フランス語版)、ポール・マンク(フランス語版)、ルイーズ・ミシェル、マリア・ヴェルデュールらとともに女性クラブを立ち上げていたドレームは、『女性の権利』紙との連携により、1870年7月11日に改革宴会にならって「女性の権利宴会」を開催し、共和派約60人の参加を得た。リシェは、「女性の権利が堂々と公に確認されたのは、フランス史上初めてのことである」と、会の成功を称えた。この宴会は、以後、『女性の権利』紙の主催で定期的に行われることになり、普仏戦争直前の1870年4月16日には、ドレーム、リシェ、リシェの妻ジョゼフィーヌが女性の権利協会を立ち上げた。第二帝政崩壊(第三共和政成立)後の1872年6月9日に行われた「女性の権利宴会」は、共和派から多数の参加を得、ヴィクトル・ユーゴーとルイ・ブランが演説をした。 リシェは次に、女性解放運動の一環として離婚の合法化に取り組んだ。キリスト教の教義に基づいて禁止されていた離婚は、フランス革命期における非キリスト教化運動により1792年に合法化されたが、1814年の王政復古によってカトリックが国教と宣言されると、再び1816年に禁止された。リシェは1873年4月20日に離婚に関する法案を提出。メディアがこぞって取り上げたため、『離婚 ― 理由説明書と本件に関する主な公文書を伴う法案』として翌74年にシュバリエ社から刊行した。この法案は、後に政教分離を推進した社会運動家・フェミニストのアルフレッド・ナケ(フランス語版)が再検討し、新法案として提出。1884年7月27日の法律(ナケ法)によって離婚は68年ぶりに合法化された。 女性の権利協会は、1874年にニューヨークで結成された国際女性連盟に加盟した際に規約を改正し、「女性の境遇の改善のための結社」に改名した。1875年12月、同年内相に就任したルイ・ビュフェ(フランス語版)がリシェに結社の解散を求めた。だが、公文書の発行は拒否し、口頭命令によりリシェに一任するとしたため、リシェは、結社とは別に多くの講演を行い、宣伝のための晩餐会を主催し、『女性の権利』紙の発行を継続した。1878年のパリ万国博覧会では、『女性の権利』紙の主催により、国際女性連盟の第1回国際会議「国際女性の権利会議(フランス語版)」が開催された。5つの分科会によって構成されたこの会議には欧米各国から多くの代表が参加し、女性の権利・地位向上に関するあらゆる女性問題が論じられた。ただし、女性参政権は議題に挙がっていなかった。リシェもドレームもまだ機が熟していないと考えていたからであり、このために、ユベルティーヌ・オークレールら女性参政権運動家との対立を生むことになった。国際女性の権利会議は成功裡に終わった。政府はこのために態度を変えざるを得なくなり、1878年8月3日付政令により、「女性の境遇の改善のための結社」を認可した。
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