『女性市民』紙
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「ユベルティーヌ・オークレール」の記事における「『女性市民』紙」の解説
以後、女性たちに解放を促し、女性解放の思想を広めるために、パリやその他のフランスの大都市、ブリュッセルなどで市町村の主催による講演会を行い、請願書やパンフレットを次々と発表した。さらに、1881年2月13日に女性だけでなく男性も対象とし、男性の記者も参加するフェミニズム新聞『女性市民』紙を創刊した。オークレールは社説を本名で、他の記事はジャンヌ・ヴォワトゥーの筆名で執筆し、女性には、男性が女性の政治参加を拒むことで作り上げた依存関係からの解放を説き、男性には、女性が「舵取り」をして初めて男性の自由が保障され、真の民主主義が築かれると説いた。1881年の市町村議会議員選挙以降は『女性市民』紙で直接有権者に呼びかけ、候補者が「女性の権利に賛成か反対かによって誠実な男性か野心的な男性かを見分けることができる」などの「共和派選挙計画」のための「基準」を作成して掲載したり、自由思想家が再び市庁舎で行われる結婚式で演説するようになったことを知るとセーヌ県の新知事宛に「フェミニスト」の権利を認めるよう要求する書状を掲載したり、夫婦間暴力の問題を取り上げ、「共和国の欺瞞のあらわれ」であるとして「奴隷によって個人差のある自由」と題する記事を掲載したりと、積極的に世論に訴えた。 1888年、理解者の一人である弁護士のアントナン・レヴリエと結婚。フランス領アルジェリア (1830-1962) への転勤に同行することになり、同じ女性解放運動家のマリア・マルタンを不在中の代理編集長に任命した。アルジェリア滞在中も今度は「アラブ人女性」のために闘い、フランス当局が未成年女性の結婚、特にかなり高齢な男性との結婚や一夫多妻制、棄妻などを認める「アラブの習慣・制度に加担している」と非難した。『女性市民』紙にもまれにだが記事を発表し続け、1891年には「ある女性自由思想家からレオ13世へ」と題する書状を掲載し、「男女同権の教義」を確立するよう要求した。同年、オークレールは『女性市民』紙を続けることが経済的に困難になったため、マリア・マルタンがこれを引き継ぎ、紙名を『女性紙』に変更。『女性市民』紙は実質的に廃刊となった。
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