編集委員・寄稿者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/08 03:09 UTC 版)
「マルグリット・デュラン」の記事における「編集委員・寄稿者」の解説
こうして、1897年12月9日、本格的なフェミニスト新聞『ラ・フロンド』が誕生した(語義は「フロンドの乱」参照)。宣伝ポスターを制作したのはクレマンティーヌ=エレーヌ・デュフォー(フランス語版)で、彼女は以後も『ラ・フロンド』の表紙を多数手がけている。第1号の発行部数は20万部。当初は日刊紙として(1903年9月から1905年3月の廃刊まで月刊誌として)刊行し、編集委員、コラムニスト、寄稿者はもちろん、校正や印刷もすべて女性のみで行った。『フィガロ』紙の記者としての経験から読者の嗜好を把握していたデュランは、料理、ファッション、社交界事情などの従来の大衆紙の要素も取り入れながら、女性問題に関する専門的かつ最新の情報を提供するために、編集委員には各界の女性著名人を充てた。女性初のソルボンヌ大学教授クレマンス・ロワイエ、女性初のパリ公認弁護士ジャンヌ・ショーヴァン(フランス語版)、女性初の公教育審議会委員ポーリーヌ・ケルゴマール(フランス語版)、女性作家として最初にレジオンドヌール勲章を受けたジャンヌ・ロワゾー(フランス語版)、後に女性で初めて重罪院(フランス語版)で弁護することになる弁護士マリア・ヴェローヌ(テミスの偽名で裁判記録を掲載)、女性初の調査報道記者セヴリーヌである。この他、反教権主義的な小説で知られる作家マルセル・ティナイエール(フランス語版)、作家、歴史家、彫刻家、画家のリュシー・ドラリュー=マルドリュス(フランス語版)、『女性市民』紙を創刊した女性参政権運動家ユベルティーヌ・オークレール、同じく女性参政権運動家で慈善活動家のアドリエンヌ・アヴリル・ド・サント=クロワ(フランス語版)、米国人天文学者ドロセア・クルンプケ(フランス語版)、新マルサス主義(フランス語版)フェミニストのマドレーヌ・ペルティエとネリー・ルーセルらも定期的に寄稿した。デュランは、女性だけで新聞を作るというのは、男性を排除するという意味ではなく、当時は「たとえ事務員としてでも男性が関与していると、実際には男性が記事を書いているのに女性が書いたもののように見せかけている」と噂されるような時代だったからであり、また、調査報道や植字など従来「男の仕事」とされていた分野も含めて女性に職業能力があることを実証したかったと説明している。
※この「編集委員・寄稿者」の解説は、「マルグリット・デュラン」の解説の一部です。
「編集委員・寄稿者」を含む「マルグリット・デュラン」の記事については、「マルグリット・デュラン」の概要を参照ください。
- 編集委員・寄稿者のページへのリンク