国際委員会の行政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 07:32 UTC 版)
「南京安全区国際委員会」の記事における「国際委員会の行政権」の解説
委員会は馬南京市長が南京を離れる際に委員会に南京の行政権を委ねたと主張した。しかし、日本側はこの件に関する中国政府の日本に対する公式な働きかけと日本側の了解が欠如していることからその行政権委譲の正統性がないと反論した。この反論をうけて委員会は主張を直ちに取り消し、現在の日本軍の無法状況では委員会が南京の行政権を行使して治安維持することが必要であると力説した。日本軍は委員会のこのような活動を占領政策に違反するとして委員会の早期解体を望み、常に対立抗争の状態であった。 東中野修道によれば、安全地帯は行政区画ではなく、日本軍が承認しなかった非武装の中立地帯であった。 歴史研究家の冨澤繁信は、委員会が南京の行政権を主張する限り、委員会は日本軍兵士の暴行を引続き主張する必要があり、これが後に「南京事件(南京大虐殺事件)」としてまとめられたと主張している。また、名称も「国際委員会」として国際機関の国際的活動であるように見せてはいるが、当時の国際連盟などの公式の国際機関がこの委員会を認めたことはなく、委員会が自称したのみであったと述べている。ただし、このような事をわざわざ取りあげる発想はそもそも現代人のものであり、この時代の当事者らは安全区を外国人租界のようなイメージでとらえ、また委員会メンバーらもそのように捉えられることを期待していたようである。そもそもこの当時、internationalが名につく国際機関は、国際赤十字、ILO、(共産主義の)第三インターナショナル、IOCくらいであり、この言葉に当時の関係者がなにか特別の意味や効果を見出していたとは考えにくい。なお、この国際委員会のメンバーを見れば、他ならぬ国際赤十字の加盟団体である南京赤十字のメンバーが主力をしめており、ラーベが委員長となったのは、シーメンス社の資力を活用して難民支援用の物資を買い集めていたこともあるが、ラーベがドイツ人でありナチ党員であることに、日本軍に対してもある程度押しが利くのではないかと、むしろそちらの方が期待されていたのではないかと考えられる。
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