フランス女性の権利連盟
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「レオン・リシェ」の記事における「フランス女性の権利連盟」の解説
再結成後、今度はドレームとの間に内部対立が生じた。リシェが女性参政権運動を支持するようになったからである。リシェは会長を辞任し、ドレームが新会長に就任した。1882年、リシェは新組織「フランス女性の権利連盟」を立ち上げた。会長にマリア・ポニヨン(フランス語版)、名誉会長にヴィクトル・ユーゴーが就任した。ユーゴーは「女性の権利宴会」での演説のほか、早くからリシェの女性解放運動を支持していた。ユーゴーがリシェに宛てた1872年の手紙では、民法典において「未成年者」と呼ばれるものを「私は奴隷と呼ぶ」、「法において未成年者であり、現実において奴隷である者、それが女性である」とし、さらに1877年の手紙では、「男性には自分の法がある。男性は自分自身で法を作ったのだ。女性には男性の法以外に法がない。女性は、法的には未成年者で、精神的には奴隷である。この2種類の劣等性が女子教育の弊害となっている。改革が必要だ。文明と真実と理性のための改革が」と語っている。「フランス女性の権利連盟」名誉委員会はユーゴーのほか、廃娼運動(フランス語版)家アドリエンヌ・アヴリル・ド・サント=クロワ(フランス語版)、公教育審議会委員ポーリーヌ・ケルゴマール(フランス語版)、レイモン・ポアンカレ(第10代大統領)、シャルル・ロベール・リシェ(1913年ノーベル生理学・医学賞受賞者)、法学者アンリ・ベルテルミ(フランス語版)、公教育省初等教育局長フェルディナン・ビュイッソンらによって構成された。会長にはポニヨンの後、労働運動家マリー・ボンヌヴィアル(フランス語版)、弁護士マリア・ヴェローヌ、名誉会長には奴隷制廃止法案を通過させたヴィクトル・シュルシェール、ルネ・ヴィヴィアニ(フランス語版)(外務大臣)が就任した。 リシェは執筆活動においても女性の権利擁護『自由な女性』(1877年)、『女性の権利』(1879年) を著し、1879年に『ル・プティ・パリジャン(フランス語版)』紙の政治問題担当シャルル=アンジュ・レザン(フランス語版)の求めに応じて同紙の編集長に就任。ジャン・フロロの筆名で女性問題のコラムを担当し、好評を博した。1883年には、民法典改正のための修正案として著書『女性法典』を発表した。1886年、リシェはフランス女性の権利連盟に加盟している上院・下院議員によって構成される議会外委員会の設置を申し入れ、設置後、委員に就任し、既婚女性を未成年者と同じ扱いとする規定を廃止すること、既婚女性の国籍に関する民法典の規定を改正すること、既婚女性および未婚女性に男性と同等の市民権・家族権を与えることなどを提案。また、ギュスタヴ・リヴェ(フランス語版)議員が提出した父権に関する調査報告書に基づく修正法案を提出した。1889年に再びパリで万国博覧会が開催されることになり、リシェは前回同様に国際会議を企画した。「フランスおよび国際女性の権利会議」として開催されたこの会議は大成功を収め、これを受けて、エルネスト・ルフェーヴル(フランス語版)議員が、商事裁判所における女性商業従事者の投票権に関する法案を提出し、可決された。1890年には「女性の権利要求のための国際連盟」(フランス、ベルギー、イングランド、スコットランド、スウェーデン、スイス、イタリア、ポーランド、ギリシャ、ニューヨーク州から参加)を設立し、会長に就任。翌年、67歳で引退した。リシェは文芸家協会(フランス語版)(1868年に入会)および共和派ジャーナリスト協会(1881年の設立時に入会)の会員を務めた。フランス陸海軍傷病兵救助協会評議会は、普仏戦争時のフランス修道女会共同代表としてのリシェの功績に対して青銅十字章と表彰状を授けた。パリ10区長は、パリ攻囲戦(フランス語版)における彼の愛国的献身に対してメダルを授与した。さらに、フランス女性の権利連盟の代表ルネ・ヴィヴィアニは、彼の貢献に対して銀メダルを授けた。 1911年6月15日にパリにて死去。享年87歳。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。
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