フランス大東社とフランスでの動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 08:14 UTC 版)
「フリーメイソン」の記事における「フランス大東社とフランスでの動向」の解説
「非正規」派のグランド・ロッジとして有力なのは、フランスの「フランス大東社」(GODF)である。ただし、当初は英米系と相互承認関係にあった。同ロッジは従来のフランス・グランド・ロッジから独立した勢力を統合し、1773年10月22日発足した。仏大東社は、英米系のロッジと違い、組織として政治活動に加わる者も少なくなかった(フランス革命では、フリーメイソン思想のかかわりが指摘される反面、関係者が多数処刑されている。また、ロッジとしてはむしろアンシャン・レジームの立場で、革命は彼等の予想外の出来事だったとする研究もある。従って、政治活動に加わっていても、組織だって革命に与したかどうかは議論がある)。 フランスでフリーメイソンリーが政治的影響を強めるのは19世紀後半、第三共和制期に入ってからである。政治活動を禁じた「正規派」と異なり、仏大東社は圧力団体としても機能した。 1877年9月13日、仏大東社は憲章を改訂して「至高の存在への尊崇と信仰」の義務規定を撤廃し、「良心の自由と人間性の確立」を新たな基本理念と定めた。これを基本理念の逸脱と見なした英系ロッジは、仏大東社の認証を取り消した。ただし、「正規派」メイソンの片桐三郎によれば、1867年、仏大東社がアメリカ・ルイジアナ州に設立したスコティッシュ・ライト評議会(上位階級授与のための組織、後述)が、同州のグランド・ロッジに管轄権を要求したため、米国系ロッジはこれを不服とするルイジアナ州のグランド・ロッジの要請に基づき、仏大東社の認証を取り消した事件があった。片桐によれば、英米系との対立はこの事件がきっかけであり、憲章改訂はだめ押しに過ぎなかったとしている。その結果、仏大東社は「無神論者」のレッテルを貼られたが、これは信仰の自由・信仰しない自由を共に認めたものであり、信仰そのものの否定ではない。さらに、その後共産主義者の入会も認め、Arthur Groussier、フレッド・ツェラーなどグランドマスターになった者もいる。 また、フランスのロッジに女性会員(仏大東社自体は認めていない)やアフリカ系(黒人系)会員を認めたことも、「正規派」による非難の理由とされた。すなわち、当時の「正規派」が人種差別思想を多分に持っていたことを意味する。 現在でも、フランスでは仏大東社系のフリーメイソンリーが最大勢力である。政治的には、19世紀末から20世紀初めに、カトリックとの対立の所産でもある政教分離推進に強い影響力を持った。そのため、1904年にはフランスはローマ教皇庁との国交断絶に至った(現在は国交回復)。その後影響力を低下させたが、1936年の総選挙で人民戦線が勝利した背景にも、仏大東社の仲介があったという。戦後も、民族自決の立場からフランス植民地だったアルジェリア独立を支持するなど、仏大東社は政治的発言を行っている(特定の支持政党はないが、おおむね社会党に近いとされる)。 仏大東社は、ベルギー大東社などとCLIPSAS(英語版)を設立している。「正規派」に比べて少数ではあるが、欧州や中南米を中心に約8万人がこれに属しているという。なお、「大東社」を名乗っているロッジがすべて仏大東社系ではない。「正規派」で大東社を称するロッジも多いのである。 フランス大東社のメイソンの証明書。1787年。 パリのカデ通りにあるフランス大東社の本部。 フランス大東社の本部内にあるフリーメイソン博物館(英語版)。最初フランス大東社が1889年に博物陳列室として設立した。2000年にフランスの公式博物館になった。 フランス大東社の著名なロッジ「九姉妹神」(La loge des "Neuf Sœurs")のコイン裏面。表面は九姉妹神ロッジのメイソンで米国の政治家ベンジャミン・フランクリン。 最晩年に九姉妹神ロッジでメイソンリーに入会したヴォルテールの彫像。パリのパンテオン所蔵。 女性・男性混成のフリーメイソンリー団体「人権」(Le Droit Humain)の建造物。パリのジュール・ブルトン通りにある。
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