フランス学士院への寄付
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 22:58 UTC 版)
「コンデ美術館」の記事における「フランス学士院への寄付」の解説
1884年6月3日の遺言書において、直接の相続人がいなかったオマール公は、そのコレクションをシャンティイーのほかの領地とともにフランス学士院に遺贈した。彼自身もすでに、学士院に従属する二つのアカデミーの会員であった。1871年よりアカデミー・フランセーズ、1880年より芸術アカデミーの会員だったのだ。この遺贈は、彼にとってはコレクションの散逸を防ぐ手段である。当時のオワーズ県知事でその後外務大臣となる[:fr]ジュスタン・ド・セルヴ(仏語Wikipedia)がこの寄贈について示唆したのであろう。1886年6月22日の国外追放によりオマール公は再び居城を去ることを余儀なくされ、それ以降は、この遺贈を、使用権を確保した上で、生前の最終的な寄付へと変えた。1886年10月25日に証書が公示された。この寄贈の条件は非常に厳しいものである。つまり、作品の展示の変更は許されず、コレクションの売却や貸し出しも認められない。寄付の証文は1886年12月20日の大統領令により最終的に受け入れられた。その法令によると、城館の運営指揮は三人の学芸員が共同で行うこととされ、アカデミー・フランセーズの会員より一名、芸術アカデミーの会員より一名、そして他のアカデミーから一名の会員がその任に当たることとされたが、実際にはこの最後の一名は碑文・文芸アカデミーか政治道徳アカデミーから選ばれた。日常的なコレクションの管理のために学芸員補が任命されたが、初代はそれまでオマール公の秘書であったギュスターヴ・マコン(Gustave Macon, 1865-1930)であった。三人の学芸員および学芸員補には、公園入り口にあるアンギアン城の中に住居が与えられたが、そこに居住することが義務付けられたのは学芸員補のみである。この寄贈は、オマール公が死去する1897年8月7日に有効となる。
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