結婚と家庭生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/12 04:04 UTC 版)
エドワード・ウィンスローとスザンナ・ホワイトは、1620年から1621年の厳しい冬の間にお互いの伴侶を亡くしており、プリマスで初めて結婚するカップルとなった。ブラッドフォード知事が結婚式を執り行った。 結婚は植民地の成人住民にとって正常な状態と考えられた。多くの男は20代半ばに、女は20歳頃に最初の結婚を行った。再婚は特別なことでは無く、寡婦および男やもめは再婚するように社会的また経済的圧力を受けた。平均して、寡婦および男やもめは半年から1年以内に再婚した。結婚適齢期に到達した成人の多くが60代まで生きたので、人生の3分の2は結婚した状態で過ごした。 結婚という制約の中で、女と男は法的にも社会的立場からも平等とは考えられなかった。しかし、17世紀ヨーロッパの標準と比較すると、プリマス植民地の女性はより広い法的、社会的権利を持っていたことは注目すべきである。教会の考え方から、女は神の前では男と対等だった。家族全体でともに礼拝を行い、神の恩寵は全ての信仰告白したキリスト教徒に平等に与えられるものだった。しかし、ピューリタンの家庭での女性は子供を育てたり家事を取り仕切る伝統的な女性の役割を期待された。 女性に権利がほとんど無かったヨーロッパとは異なり、プリマスの女性は広い財産と法的な権利を享受できた。プリマスの寡婦はその夫の遺言から法的に排除されるのではなく、遺産の3分の1の相続は保証された。プリマスの女性は契約の相手とされ、その顕著な例が婚前契約書だった。嫁となる者は(その父親ではないところに注意)、結婚によって資産の結合に関する契約に入ることが普通だった。幾つかの場合、特に再婚の場合、女性は夫とは別に資産を管理できる排他的な権利を与えられた。女性は偶にプリマスの陪審員になることでも知られた。17世紀の法習慣では注目すべきことである。歴史家のジェイムズ・スコットとパトリシア・スコットは、アン・バットソンの子供の死に関する1678年の審問で、陪審員は5名の女性と7名の男性だったことを例に挙げている。 植民地の一家族当たり人数は今日のアメリカの標準から考えると多い。出産は間を空けたので子供の年は平均的に2歳離れていた。ほとんどの家庭は同じ屋根の下に5, 6人の子供がいたので、母親が出産を終えてしまう前に成長した子供を外に出すことも希なことではなかった。出産で死ぬ母親や子供の死亡率も高かった。出産30回に1人の母親が死に、平均して5人に1人の母親が出産の時に死んだ。新生児の死亡率も高く、1歳未満で死ぬ確率は12%だった。1995年の新生児死亡率が0.76%であることと比較すれば、その高さが分かる。 植民地の家族構成は「核家族」が普通であり、近い親戚は近くに住んだ。成人になった者は家を出て自身の世帯を造ることが期待された。両親と生まれた子供が同じ家に住むことに加えて、多くの家庭は他の家庭から子供を預かることもあり、また年季奉公の従僕を抱える家庭もあった。より裕福な家庭は奴隷を所有した。
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