結婚と息子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/13 07:05 UTC 版)
「アナスタシヤ・ヤロポルコヴナ」の記事における「結婚と息子」の解説
アナスタシヤの父ヤロポルクは1186年に殺害され、その後にアナスタシヤの母のクニグンデは、最年少の娘(アナスタシヤの妹)を連れて出身地であるドイツに帰った。一方アナスタシヤはルーシに留まっており、おそらく、既に結婚していたか、少なくとも婚約していたと考えられる。なお、L.アレクセエフ(ru)はアヤスタシヤとグレプとの婚約は1073年の初めであり、その婚約はキエフ大公イジャスラフ(アナスタシヤの祖父)とその兄弟たちとの紛争の要因となったとみなしているが、1073年にはまだアナスタシヤは生まれていないとする、この説に対する反論が述べられている。 また、グレプの子としては、ロスチスラフ、ヴォロダリ、フセヴォロド(be)、イジャスラフがいることが知られているが、このうちロスチスラフはアナスタシヤの子ではなく、グレプとその先妻との間の子ではないかという仮説も提唱されている。その根拠は、ロスチスラフの妻とされるソフィヤは、ロスチスラフにとってはアナスタシヤ側の再姉妹にあたるが、このような等身関係上の結婚は教会の許可するものではなく、まれにのみ行われるものであるというものである。とはいえ、ロスチスラフの妻の出自は明確に断定しうるものではないがゆえに、ロスチスラフもまたアナスタシヤの子であるとみなしうるとする指摘もある。
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