アナスタシヤ・ヤロポルコヴナとは? わかりやすく解説

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アナスタシヤ・ヤロポルコヴナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/16 13:20 UTC 版)

アナスタシヤ・ヤロポルコヴナ
Анастасия Ярополковна

称号 ミンスク公
出生 1074年
死去 1158年1月3日
配偶者 ミンスク公グレプ
子女 ロスチスラフ?
ヴォロダリ
フセヴォロド
イジャスラフ
家名 リューリク家
父親 ヴォルィーニ公ヤロポルク
母親 クニグンデ・フォン・ヴァイマール=オーラミュンデ
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アナスタシヤ・ヤロポルコヴナロシア語: Анастасия Ярополковна1074年 - 1158年1月3日[1])は、ヴォルィーニ公ヤロポルクと妻クニグンデ(ru)との間の娘である。ミンスク公妃(ミンスク公グレプ妻)。

史料上の言及

ルーシの年代記レートピシ)には、この女性の名を記したものはなく、アナスタシヤという名は『キエフ史要(ru)』(1674年に完成したロシア最初のロシア史教本[2])の中にのみ記されている。また年代記には、アナスタシヤの没年のみが記されている。すなわち、1158年の1月3日、午前2時にアナスタシヤは永眠し、それは先立った夫・グレプが没してから40年後であった。アナスタシヤは、キエフ・ペチェールシク大修道院において、キエフのフェオドシー(ru)の聖骨箱[3](ru)の隣に、夫と共に埋葬された。という記述である[4]。また、アナスタシヤは死に際して、所有していた5つの村、チェリャヂ、その他全財産を、キエフ・ペチェールシク大修道院に遺贈した。

キエフ・ペチェールシク大修道院には、1638年に修道士アファナシー・カリノフォイスキー(ru)によって碑文が書かれた、グレプとアナスタシヤの記念碑がある。

結婚と息子

アナスタシヤの父ヤロポルクは1186年に殺害され、その後にアナスタシヤの母のクニグンデは、最年少の娘(アナスタシヤの妹)を連れて出身地であるドイツに帰った[1]。一方アナスタシヤはルーシに留まっており、おそらく、既に結婚していたか、少なくとも婚約していたと考えられる[5][6]。なお、L.アレクセエフ(ru)はアヤスタシヤとグレプとの婚約は1073年の初めであり、その婚約はキエフ大公イジャスラフ(アナスタシヤの祖父)とその兄弟たちとの紛争の要因となったとみなしているが、1073年にはまだアナスタシヤは生まれていないとする、この説に対する反論が述べられている[7]

また、グレプの子としては、ロスチスラフヴォロダリ、フセヴォロド(be)、イジャスラフがいることが知られているが、このうちロスチスラフはアナスタシヤの子ではなく、グレプとその先妻との間の子ではないかという仮説も提唱されている[6]。その根拠は、ロスチスラフの妻とされるソフィヤは、ロスチスラフにとってはアナスタシヤ側の再姉妹にあたるが、このような親等関係上の結婚は教会の許可するものではなく、まれにのみ行われるものであるというものである。とはいえ、ロスチスラフの妻の出自は明確に断定しうるものではないがゆえに、ロスチスラフもまたアナスタシヤの子であるとみなしうるとする指摘もある[8]

出典

  1. ^ a b Назаренко А.В. Древняя Русь на международных путях. — М, 2001. — С. 526-527.
  2. ^ 井桁貞義『コンサイス露和辞典』p996。また「キエフ史要」という書名の出典も同様
  3. ^ 井桁貞義『コンサイス露和辞典』p909
  4. ^ ПСРЛ. Том 2. Ипатьевская летопись. — СПб, 1908. — С. 492-493.
  5. ^ Древняя Русь в свете зарубежных источниковТ. IV. — С. 231-232.
  6. ^ a b Назаренко А.В. Древняя Русь и Славяне. — М, 2007. — С. 153-154.
  7. ^ Литвина А.Ф., Успенский Ф.Б. К уточнению семантики древнерусского «свататися» / «сватитися» и «сват(ь)ство» // Die Welt der Slaven. Internationale Halbjahresschrift für Slavistik. — 2013. — Т. LVIII. — С. 321.
  8. ^ Литвина А.Ф., Успенский Ф.Б. Внутридинастические браки между троюродными братьями и сестрами в домонгольской Руси // Древняя Русь. Вопросы медиевистики. — 2012. — № 3(49). — С. 66.

参考文献

  • Алексеев Л. В. Полоцкая земля (очерки истории северной Белоруссии) в IX — XIII вв. / Ответственный редактор академик Б. А. Рыбаков. — М.: Наука, 1966. — 295 с.
  • Артамонов Ю.А. Князья полоцкие — «великие милосники великой лавры Печерской» // Ad fontem : сб. ст. в честь Сергея Михайловича Каштанова. — М.: Наука, 2005.
  • Древняя Русь в свете зарубежных источников / под ред. Т.Н. Джаксон, И.Г. Коноваловой. Том IV. Западноевропейские источники. / под ред. А.В. Назаренко. — М.: Университет Дмитрия Пожарского, 2010.



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