史料上の言及
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「ヤミ族 (中世フィンランド)」の記事における「史料上の言及」の解説
『原初年代記』における最初の言及は、1042年にノヴゴロド公ウラジーミルが行った、ヤミ族への遠征に関する記述においてである。また、ヤミ族がルーシ人に対しダーニ(貢税)を支払ったことが記されている。北ドヴィナ川支流のエムツァ川(ru)(フィンランド語名:Jemtsajoki)流域の、オネガ湖東部の地域は、中世にはヤミ族に対するポゴスト(貢物納入所)が設置されていた。ヤミ族に対する遠征は、原則的にポゴスト関連のものである。一方、ヤミ族からの攻撃の記録も残っている。1142年、ヤミ族はノヴゴロド公国領を攻撃し、ラドガにおいて400人が戦死している。1149年にもヤミ族が攻撃を仕掛け、ルーシの史料によれば1000人が死亡した。これを500人のノヴゴロド兵がヴォヂ族(現vađđalaizõd人)と共に追撃し、勝利を収めた。総括すると、1123年、1142年、1143年、1149年、1186年、1191年、1127年(もしくは1126年)、1128年、1240年、1256年、1292年、1311年の記述に、ヤミ族に関する言及が見られる。 また、1042年の記述が、エムツァ川流域のヤミ族ではなく、現フィンランド領域のヤミ族について言及したものであるならば、フィンランドの歴史に関する文献上の[要出典]最初の言及ということになる。 後世の1384年には、現キンギセップにノヴゴロドのボヤーレ(貴族)イヴァン・フョードロヴィチ(ru)によって、ヤミ族の名にちなむヤム(ロシア語: Ям、古スラヴ語:Ямѣ)要塞が築かれた。キンギセップは近代まで、ヤムスキー・ゴロドク(ヤムの小都市の意)、ヤムブルグ(ヤム城の意)等の名で呼ばれていた。
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史料上の言及
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レートピシ(ルーシの年代記)は、ベルラドニキと、そのドナウ川付近の都市について度々言及している。そのうちの『イパーチー年代記』には、1159年に、ガーリチ公ヤロスラフとその従兄弟のイヴァンとの闘争において、敗れたイヴァンがドナウ川沿いの諸都市に逃れ、6000人のポロヴェツ族とベルラドニキを召集して再来した、という主旨の記述がある。また、イヴァンとベルラドニキは1161年にドニエプル川河口のオレシエ港湾(ru)を占領し、キエフの交易に大きな被害をもたらした。 なお、このイヴァンによる、ベルラドニキについて言及した1134年の[要出典]勅令があるとされる。この勅令は初め1860年、次いで1869年にベッサラビアの作家・学者のBogdan Hasdeu(en)によって発表された(原文は現存しない)。しかし表記上のいくつかの誤りから、これは近代に作成された可能性があり、あるいは、Bogdan Hasdeuによる愛国主義的な偽書ではないかとみる説がある。 ベルラドニキの地は、後のモルダヴィア公国(ru)の一部になったとみなすことができる。この河川の狭間の地域は、ヴラフ人や、いくつかのスラヴ人の部族が住んでいた地域でもあった。
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史料上の言及
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ルーシの史料では、ブロドニキはレートピシ(ルーシの年代記)上にしばしば言及されている。ブロドニキはルーシ諸公同士や、ルーシ諸公とポロヴェツ族、あるいはルーシ諸公とタタール人との戦いに参加した。1223年のカルカ河畔の戦いでは、プロスクィニャ(ru)を長とするブロドニキの一軍が、ルーシ・ポロヴェツ連合から離反し、モンゴル帝国軍に付いている。また、『イーゴリ軍記』中に言及される「デレメーラ」(浅瀬の人々、を意味するテュルク語のdärmälに拠る)は、おそらくブロドニキを指している。 西欧の史料では、ブロドニキの居住地について、クマン人、ルーシ人、ブルガール人と国境を接していると述べている。たとえば、ローマ教皇グレゴリウス9世の1227年の書簡中には「in Cumania et Brodnic terra illae vicina, de cuius gentis conversione speratur, legationis officium tibi committere dignaremur…」という文がある。また、ハンガリー王ベーラ4世は1250年に、ローマ教皇に、タタール人がブロドニキを含むハンガリーの東の隣人を征服したということを伝えている。なお、同じくベーラ4世の1254年の書信では、西欧の史料で頻繁に、正教徒と異教徒(キリスト教から見た)を等しくそのように称することがあるように、ブロドニキとルーシの人々を異教徒(ru)と呼んでいる。ブロドニキの居住地が現モルドバの何処かの一部を占めていたことは明らかである。 13世紀以降の史料からは、ブロドニキに関して読み取ることはできない。なお、ブロドニキはスラヴ人社会の中に融合しつつも、民族的組織を形成できずに、初期のコサック部隊に参加したという仮説がある。
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史料上の言及
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「アナスタシヤ・ヤロポルコヴナ」の記事における「史料上の言及」の解説
ルーシの年代記(レートピシ)には、この女性の名を記したものはなく、アナスタシヤという名は『キエフ史要(ru)』(1674年に完成したロシア最初のロシア史教本)の中にのみ記されている。また年代記には、アナスタシヤの没年のみが記されている。すなわち、1158年の1月3日、午前2時にアナスタシヤは永眠し、それは先立った夫・グレプが没してから40年後であった。アナスタシヤは、キエフ・ペチェールシク大修道院において、キエフのフェオドシー(ru)の聖骨箱(ru)の隣に、夫と共に埋葬された。という記述である。また、アナスタシヤは死に際して、所有していた5つの村、チェリャヂ、その他全財産を、キエフ・ペチェールシク大修道院に遺贈した。 キエフ・ペチェールシク大修道院には、1638年に修道士アファナシー・カリノフォイスキー(ru)によって碑文が書かれた、グレプとアナスタシヤの記念碑がある。
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史料上の言及
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「1185年5月1日の日食」の記事における「史料上の言及」の解説
ルーシ(現ロシア・ウクライナ・ベラルーシ)の文学作品『イーゴリ軍記』には、リューリク朝、ノヴゴロド・セヴェルスキー公国の公イーゴリの軍勢が、ドネツ川へ進軍中、夕暮れ近くに、日食に遭遇したことが記されている。作品中には、日食を不吉な出来事の前兆と恐れる部下たちを励ましながら進軍するイーゴリの言葉が述べられており、同じくルーシの年代記・『原初年代記』(ラヴレンチー年代記、イパーチー年代記)においても同様の記述がみられる。
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