史料上の言及とは? わかりやすく解説

史料上の言及

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/04 22:41 UTC 版)

ヤミ族 (中世フィンランド)」の記事における「史料上の言及」の解説

原初年代記』における最初言及は、1042年ノヴゴロド公ウラジーミルが行った、ヤミ族への遠征に関する記述においてである。また、ヤミ族ルーシ人対しダーニ貢税)を支払ったことが記されている。北ドヴィナ川支流のエムツァ川(ru)(フィンランド語名:Jemtsajoki)流域の、オネガ湖東部地域は、中世にはヤミ族対すポゴスト貢物納入所)が設置されていた。ヤミ族対す遠征は、原則的にポゴスト関連のものである一方ヤミ族からの攻撃記録残っている。1142年ヤミ族ノヴゴロド公国領を攻撃しラドガにおいて400人が戦死している。1149年にもヤミ族攻撃仕掛けルーシ史料によれば1000人が死亡した。これを500人のノヴゴロド兵がヴォヂ族(現vađđalaizõd人)と共に追撃し勝利を収めた総括すると、1123年1142年1143年1149年1186年1191年1127年もしくは1126年)、1128年1240年1256年1292年1311年記述に、ヤミ族に関する言及見られるまた、1042年記述が、エムツァ川流域ヤミ族ではなく、現フィンランド領域ヤミ族について言及したのであるならば、フィンランドの歴史に関する文献上の[要出典]最初言及ということになる。 後世1384年には、現キンギセップノヴゴロドボヤーレ貴族)イヴァン・フョードロヴィチ(ru)によって、ヤミ族の名にちなむヤムロシア語: Ям、古スラヴ語:Ямѣ)要塞築かれた。キンギセップ近代まで、ヤムスキー・ゴロドク(ヤム小都市の意)、ヤムブルグ(ヤム城の意)等の名で呼ばれていた。

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史料上の言及

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/15 21:03 UTC 版)

ベルラドニキ」の記事における「史料上の言及」の解説

レートピシルーシ年代記)は、ベルラドニキと、そのドナウ川付近の都市について度々言及している。そのうちの『イパーチー年代記』には、1159年に、ガーリチ公ヤロスラフとその従兄弟イヴァンとの闘争において、敗れたイヴァンドナウ川沿いの諸都市逃れ6000人のポロヴェツ族ベルラドニキ召集し再来した、という主旨記述がある。また、イヴァンベルラドニキ1161年ドニエプル川河口のオレシエ港湾(ru)を占領しキエフ交易大きな被害もたらした。 なお、このイヴァンによる、ベルラドニキについて言及した1134年の[要出典]勅令があるとされる。この勅令初め1860年次いで1869年ベッサラビア作家学者のBogdan Hasdeu(en)によって発表された(原文現存しない)。しかし表記上のいくつかの誤りから、これは近代作成され可能性があり、あるいは、Bogdan Hasdeuによる愛国主義的な偽書ではないかとみる説がある。 ベルラドニキの地は、後のモルダヴィア公国(ru)の一部になったとみなすことができる。この河川狭間地域は、ヴラフ人や、いくつかのスラヴ人部族住んでいた地域でもあった。

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史料上の言及

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/15 21:07 UTC 版)

ブロドニキ」の記事における「史料上の言及」の解説

ルーシ史料では、ブロドニキレートピシルーシ年代記)上にしばしば言及されている。ブロドニキルーシ諸公同士や、ルーシ諸公ポロヴェツ族、あるいはルーシ諸公タタール人との戦い参加した1223年カルカ河畔の戦いでは、プロスクィニャ(ru)を長とするブロドニキ一軍が、ルーシ・ポロヴェツ連合から離反しモンゴル帝国軍に付いている。また、イーゴリ軍記中に言及される「デレメーラ」(浅瀬人々、を意味するテュルク語のdärmälに拠る)は、おそらくブロドニキ指している。 西欧史料では、ブロドニキ居住地についてクマン人ルーシ人ブルガール人国境接していると述べている。たとえば、ローマ教皇グレゴリウス9世1227年書簡中には「in Cumania et Brodnic terra illae vicina, de cuius gentis conversione speratur, legationis officium tibi committere dignaremur…」という文がある。また、ハンガリー王ベーラ4世1250年に、ローマ教皇に、タタール人ブロドニキを含むハンガリーの東の隣人征服したということ伝えている。なお、同じくベーラ4世1254年書信では、西欧史料頻繁に正教徒異教徒キリスト教から見た)を等しくそのように称することがあるように、ブロドニキルーシ人々異教徒(ru)と呼んでいる。ブロドニキ居住地が現モルドバ何処か一部占めていたことは明らかである。 13世紀以降史料からは、ブロドニキに関して読み取ることはできない。なお、ブロドニキスラヴ人社会中に融合しつつも、民族的組織形成できずに、初期コサック部隊参加したという仮説がある。

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史料上の言及

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/13 07:05 UTC 版)

アナスタシヤ・ヤロポルコヴナ」の記事における「史料上の言及」の解説

ルーシ年代記レートピシ)には、この女性の名を記したものはなく、アナスタシヤという名は『キエフ史要(ru)』(1674年完成したロシア最初ロシア史教本)の中にのみ記されている。また年代記には、アナスタシヤ没年のみが記されている。すなわち、1158年1月3日午前2時にアナスタシヤ永眠し、それは先立った夫・グレプ没してから40年後であった。アナスタシヤは、キエフ・ペチェールシク大修道院において、キエフのフェオドシー(ru)の聖骨箱(ru)の隣に、夫と共に埋葬された。という記述である。また、アナスタシヤ死に際して、所有していた5つチェリャヂ、その他全財産を、キエフ・ペチェールシク大修道院遺贈したキエフ・ペチェールシク大修道院には、1638年修道士アファナシー・カリノフォイスキー(ru)によって碑文書かれた、グレプアナスタシヤ記念碑がある。

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史料上の言及

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/23 15:55 UTC 版)

1185年5月1日の日食」の記事における「史料上の言及」の解説

ルーシ(現ロシア・ウクライナ・ベラルーシ)の文学作品イーゴリ軍記』には、リューリク朝ノヴゴロド・セヴェルスキー公国の公イーゴリ軍勢が、ドネツ川進軍中、夕暮れ近くに、日食遭遇したことが記されている。作品中には、日食不吉な出来事前兆恐れ部下たちを励ましながら進軍するイーゴリ言葉述べられており、同じくルーシ年代記・『原初年代記』(ラヴレンチー年代記イパーチー年代記)においても同様の記述みられる

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