史料上の逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 15:17 UTC 版)
三厳の死によりその跡を継いだ際、家光の命により、その遺児である2人の娘も宗冬が養育することとなり、後にそれぞれ旗本の元に嫁ぐまで育て上げている。 早世した異母兄・友矩と親交が深く、著書『宗冬兵法聞書』では「兄左門(友矩)云う」として新陰流の様々な術理について友矩の見解を書き留めている。友矩が27歳で死去した後には友矩の居館を一寺とし、遺領の南大河原に十輪寺を建立してその菩提を弔っている。 晩年は池辺を逍遥し、池水に浮沈するボウフラの動きをみて兵術悟道のヒントを得、画師にその絵を描かせ、それにちなんで柳陰とも号した(『玉栄拾遺』)。 宗冬が残した遺書は全11条にわたり、遺族や藩士や流儀の門弟、小者の末にいたるまで生き届いた心遣いを記している。一方で、当時芳徳寺の住持を務めながら寺を留守にしがちであった末弟の列堂に対しては厳しく接しており、寺に押し込めるか、反抗するようなら殺してしまうようにと書き遺している。 1927年6月16日に広徳寺で行われた区画整理による墓地の改装の際に、小野玄入の作と推測される世界最古(発見当時)の黄楊製木製総義歯が発見された。
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