史料批判と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/16 15:34 UTC 版)
熊野年代記は熊野史研究の基本史料としてしばしば無批判に引用される場合が少なくなかった。しかし、前述のように原本が発見されていないことや、成立の経緯から、近年の研究はそうした扱いに疑問を投げかけている。 3篇のうち、年代が重複する古写と第壱を比較すると、古代・中世の記述では大きな相違は認められないが、第壱の近世の記述には書写者の恣意的な解釈と思われる改変と増補が認められ、転写というよりも写本と考えられる。熊野年代記には、『六国史』や有名な貴族の日記、熊野速玉大社文書などが史料として引用されており、近世中期の新宮本願の教養と文化性についての示唆が得られるが、院による熊野御幸の記事に回数や院の号に誤りが多く、在地では分からないはずの進発日が記される反面で参着日が記されないなど具体性を欠き、20数回に及ぶ藤原頼資の熊野詣が一度も記されていないのをはじめとして、参詣記が残されている著名な熊野詣も記述が見られない。 新宮庵主の萌芽を8世紀初めに求め、宇多天皇による寛平9年(897年)の勅願により霊光庵の名を賜受し、寿永元年(1182年)の後白河院による熊野御幸に庵主が供奉したといった記述も見られるが、本願所の成立を8世紀に求めるのは時期としては早過ぎ、信憑性に欠ける。熊野別当による熊野三山統治の終焉に関する記事でも、還俗後に名乗ったとされる姓が系譜の上で不自然であるだけでなく、終焉とされるよりも後の時代に熊野別当の職にあった人物の名が信頼できる史料中に確認されている。本願が一山の造営を本務とし、経済的得分を掌握していたはずにもかかわらず、古代・中世の寄進関係の重要な事項が大幅に抜け落ちており、火災・遷宮の記事にも脱落が見られるだけでなく、有名な争乱や争論に関する記事でも、治承・寿永の乱期の熊野水軍の動向がまったく記述されておらず、中央で記録されている補陀落渡海が記されていないといったように、全体に本願としての関心事であるはずの事項が捉えられていない。こうした重要記録の欠落は史料としての欠陥(非時日性・非在地性)を示している。その他、古代・中世記事には伝承・怪異説話・霊験譚といった伝承群を多数含んでおり、それらは本願の縁起説話とでも言うべきものと考えられる。 熊野年代記を伝えた梅本家には、他に梅本家文書と称される古文書として近世文書多数と中世文書の写し十数点が伝えられている。それら中世文書のいくつかと熊野年代記の記事とは対照可能であるものの、写しの原本が不明であるため、熊野年代記記事の信頼性は限られている。近世初期以降の記述には、梅本家文書と照応するものが多くあるため信頼できるものと考えられる。古写の文明5年(1473年)条は霊光庵が火災に遭って全ての記録を焼失したことを伝えており、熊野年代記の記事が史料として信頼できるのは、せいぜい戦国期以降と見られる。 総じて言えば、古代・中世の記述は信頼性を欠くが、近世の記述については信頼できるだけでなく、熊野三山の包括的な編年記録として唯一のものとして史料的価値は高いと評価できるものの、他の近世史料との比較対照による近世史研究上の位置付けが必要とされている。古代・中世の記事に含まれる伝承群も含め、熊野の本願の自己主張と正当化がどのように織り込まれているかを解明することも今後の課題である。
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